読書感想文「きみ去りしのち(重松清)」

人は皆、この世に生を受けた時から終わりが来る事を知っている。しかし、その事実に直面している訳ではなく、おぼろげに理解しているに過ぎない。人生を全うして終えられる人もいれば、あまりにも早すぎる人もいるのだ。幼い息子を喪ったその父の姿に私は姉の姿を重ねて読み進めた。その父は前妻との間に儲けた娘と巡礼の旅に出る。

 

行く先々で出会う人、目にする景色の中にその父は様々な思いを巡らせる。子供を亡くすということは、どんな言葉でも表すことのできない後悔と懺悔の日々である。残された者達はその傷を一生背負って歩き続けるのだ。死は決して乗り越えられるものではない。その悲しみを引きずっていくのだ。

 

人は忘れられる動物だと誰かが言っていたが、忘れてしまうのはそばにあった肌の感触だけだと私は思う。あの声もしぐさも、今も色あせることなどないのだ。大切な誰かを喪った傷は少し薄れるだけでずっと胸に記憶にとどまっている。どんな夫婦であっても、自分達の間に存在していたかけがえのない命を喪ってしまった時、きっと見えない距離ができてしまう。

 

言葉の擦れ違いや、重い沈黙。それをその夫婦なりのやり方で時間をかけて形づくる。中にはそれが出来ないで別れを選ばなければならない時もあるだろう。その父もすぐに壊れてしまいそうな関係を大切につなぎ合わせて今日まできた。だからこその旅だったのだ。自分の事、妻の事、そして悔やみきれない息子の事を考える時間が必要になったのだ。

 

 

 

恐山は魂の宿る場所、北海道奥尻島で災害の起きた場所、流氷、熊本、その途中で前妻も病に倒れ彼女もまた逝ってしまう。最後の時を与那国島で過ごす前妻に妻と会いに行く。病の前妻の傍らにはそっと寄り添う娘の姿があった。そして最後の旅の目的地は島原の精霊流しとなった。前妻と息子が遠い世界に帰って行く船にそっと手を合わせた。

 

人間は自分の考え方次第で、どんなふうにでも生きられるはずだ。その胸に抱く痛みや悲しみを糧にすることさえ可能なのだ。だから、現実に囚われすぎないように、後ろ向きでもいいから、ほんの少し角度を変えて今を見られさえすればそれでいいのだ。もしも、人が生きていく事に理由が必要ならば、旅立っていった人達が自分を見守ってくれている。

 

まだ、傍らに大切な人もいる。だから、死を選ぶ訳にはいかない。こんな言葉になるのだろう。事実、人は一人ではないのである。その父には娘も妻もいてくれる。同じ痛みを知る人が。私の姉も同じなのだ。その胸に刻んだ傷は癒えることが一生なくても、その人を想い続けながら自分の最後の時まで懸命にもがきながら生を追い続けるものでなくてはならない。

 

きみ去りしのちに生き続けてさえいれば、見えてくるものが必ずあると信じて。

 

(40代女性)

 

 

 

 

 

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重松 清
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