「奉教人の死」の読書感想文
奉教人の死は「聖人伝」の「聖マリナ」が典拠と言われている。作者がどこを変え、何を訴えたかったのか知りたかったので、「聖マリナ」も一緒に読んでみた。
マリンという名前をろおれんぞに変えていること、しめおんという人物を創作したこと、マリンの父ウゼノについて全く書かれていないことなどがある。
作者はろおれんぞを原作以上に孤独な人間として書こうとしたのではないだろうか。ろおれんぞが女性だということは原作では最初から書かれているが、奉教人の死の中では最後まで秘められている。
なぜ秘めたかというと、それは芥川の文学のテーマである「刹那の感動」をより強調し、読者にも体験させるためだったのではないだろうか。
聖マリナのマリンは行者会に戻ったのち衰弱死するのであるが、芥川は火事の場面を設定して自分を陥れた女の子供を救うためろおれんぞを火の中に飛び込ませている。ろおれんぞの人生をよりドラマチックにして病死ではなく自ら命を投げ出す形をとっている。
これはすべて「刹那の感動」実現のための作者の仕掛けのような気がする。「奉教人の死」という作品の中には芥川文学の信条というべき言葉が明確に記述されている。
猛火に飛び込み子供を助けた後ろおれんぞは亡くなってしまうのであるが、ろおれんぞという女性の生き様について作者はこのように書いている。
「なべて人の世の尊さは、何ものにも換え難い、刹那の感動に極るものぢゃ。暗夜の海にも譬えようず煩悩心の空に一波をあげて、未出ぬ月の光を、水沫の中へ捕へてこそ、生きて甲斐ある命とも申そうず。」
読者がろおれんぞの二つの清らかな乳房を確認した瞬間、ろおれんぞは疑わしい男から聖人へと変わる。芥川はこの一瞬のために綿密に計画してこの文章を作りあげていったんじゃないかと思う。
この本を読み終わったとき、「芥川龍之介という人はすごいな。」とため息が出たが、そのあとで「ろおれんぞという人は立派な人だ。」と思った。芥川の文章がうますぎて、ろおれんぞへの感動が後回しになってしまったが、これも芥川の小説の特徴の一つかな、と思う。
選びぬかれた美しい言葉で綴られたこの小説だが、疑問に思うことが一つあった。ろおれんぞが聖人であったと分かった瞬間が私やしめおん達の「刹那の感動」なのかもしれない。でもろおれんぞの「刹那」はもっと別の所にあるような気がする。
聖人の刹那はここじゃない。ろおれんぞ程の人間ならば、人から認められ敬われることに何の価値も見出さないはずだ。もしもろおれんぞがそのような人間だったら、自分から「私は女です。」と言っていたはずだ。
傘張の娘の讒言をあえて受け入れ罪人の為に祈る人生を選び、「悄々とさんた・るちやの門を出」た時こそろおれんぞの刹那であったのではないかと思った。
(50代女性)
ららら