読書感想文「口笛吹いて(重松清)」

子供時代に周りにいた、そして今はどうしているのかわからないそんな子供達を思い出した。その頃の自分は気が弱く、自分の意見もろくに言えずなんとなく周りに合わせるような子供であった。そのおかげで特に仲間外れになることもなく、でもときどき悲しい思いをしたり実際に涙を流したこともある。周りの子は自分よりも強く見えたし、活き活きしているように見えたものだ。

 

「口笛吹いて」を読んですぐに小学校時代のある友人を思い出した。運動神経も良くなくリーダーシップもなく、けれども受け身の私に対してどちらかといえば上の立場の雰囲気を持っていた友人。公園で遊んでいても私ができないブリッジを披露してくれる姿を羨ましい気持ちで見ていたものだ。

 

 

 

主人公の小野さんにとって晋さんは、それ以上に尊敬する対象であったらしい。だから、戸惑う気持ちもよくわかる。羨ましかった輝いていた友人が、大人になってから宗教の勧誘で電話をかけてきて「やっぱり○○ちゃんみたいに地道に勉強していた人が最後は勝ちだよね」と言ったのだ。

 

「憧れていたんだよ」と返した姿は小野さんに似ているな、と少し苦笑いしながら思い出した。小野さんは若手の営業マンに対して、言葉の裏も探れず熱意としつこさの区別もつかないと冷たく思うのだが、そんな自分が晋さんを前に自分の思いを不器用にぶつけるのだから、人生って、人ってそんなものなんだよね、と思わずにはいられなかった。

 

このような話を読むと安心するのだ、誰だってうまくなんてできない。できないけど、失敗しながらでも進んでいくものだと思えるから。「タンタン」でも不器用でなかなか伝わらないもどかしさ、自分でも思うことが時間に合わせて変わっていってしまう微妙な心の変化を感じることができた。なんだかうまくいかないけど、何もしないわけにもいかない、そんなもどかしさを思い出した。

 

「かたつむり疾走」の浩樹もセーシュン時代だから一つ一つのことで心がブランブラン揺れるのだろうな、とセーシュン時代を思い出した。大人になるとその時代のこともちゃんといい具合に圧縮されて、長文をうまく短文にしたような、そんな思い出に変換できるのだ。その頃にはもっともっと父親に感謝できるだろう。そしてぶつけてしまった言葉をのみこんでくれた両親に感謝するのだ。未熟なセーシュン時代の失言やら何やらを。私達の世代が読むとそんな風に見える。だからそんな未来を想像しながら読むのも楽しかった。

 

「春になれば」では、未熟で、自分のことで精いっぱいで、だからこそ隙ができて悪気はないのに人に攻撃されてしまう、そんな出来事を苦い気持ちで思い出した。仕方がない、完璧な人間はいないのだ、手探りでも転びながらでも少しずつでも前進していくしかない、今の自分も含めて。爽やかに読了できた。

 

「グッド・ラック」で中野さんが雨の中主人公を元気づけるために紫陽花をとりにいくシーンがある。泣きそうになった。アルツハイマーだからではない、損得のない状態で人を元気づけようとする、無駄のないその空間が美しくて。実際は雨の中でずぶ濡れだし、服を着替えさせなくてはいけないことや髪を乾かさなくてはいけないことなど、綺麗ごとでは済まない大変なシーンでもあるが、それでもその心の美しさに涙がにじむのだ。

 

自分も含めて皆がそれぞれに生きている。どれがいいとか悪いとかではなくて。そんな思いで5編を読み終えたのだった。ある程度生きてきて、でもまだまだ未熟で、そんな世代が読むと沢山の思い出が浮かび、また、現在の自分に起こる数々の出来事も絡まり心の整理が少しできる、そんな体験ができることと思う。

 

(40代女性)

 

 

 

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