読書感想文「中国行きのスロウ・ボート(村上春樹)」

一時期、狂ったように村上春樹の文章にハマった。エッセイ、小説、対談、手に入れられるものはあらかた手に入れて読んだ。喉が乾いてがぶ飲みする水みたいにスルスルと村上春樹の世界は私の頭の中に入っていった。それは自分では考え付かない世界だった。今思えば本を読みながら、脳の中で村上春樹が監督した映画を自主的に上映していたみたいだった。映画を観てるみたいに、そのリアルなようであり得ない現実のような世界に焦がれたのだ。自分の近くにはなくとも生きている現実世界のどこかに存在しているリアル。午後の最後の芝生は、私が生きている世界に一番近く、とてもリアルな形で存在しているような錯覚を思わせる一篇なのだ。芝刈りのバイトをしている学生の男が最後の仕事として向かった先の家があるが、その家のイメージに近い家が、現実世界に存在しているからだ。私はその家のある道を通るときにいつも横目でチラリと見るだけだが、その家の佇まいを見るたびに、この話を思い出すのだ。あの話に出てくる家のイメージって、あんな感じだなと。失恋による心の喪失を抱えた主人公は、恋愛以外では順風満帆に思える、しかし本当に欲しいものを得られないとき、どんなに傍目にはうまくいっているように見えても現実はそうじゃないが、本人以外には中々それはわからないものだ、またその逆もある。

喪失の中に生きている主人公はどこか人を受け付けないような印象を受ける。人当たりもいいし、仕事もきちんとする、人に害を与えるようなこともしない、けれどどこかその存在はとても空虚だ。いい人だけど空っぽなのだ、なんとなしにフラれた理由がわかる気がするのは私が女だからだろうか、一緒にいても満たされた感じがしないのだ。そして、それが本人にはわかっていない。別れを告げた彼女にも喪失感があったことなんて。人は単純作業をすることにより、気分の切り替えができてストレスから一旦解放されることがあるという、この話は恋に破れバイトに没頭することで心の喪失と自然と向き合い、やがて大学の単位の期限が迫った頃にその終焉に気づくという、ある種の壁を乗り越える話だ。本気で求められない恋愛ほど空しいものはないが、人は色んな形で様々な物事を教えられることがある。好きだった彼女にフラレることで、彼女の求める愛情を与えることができなかった、もしくはお互いが求めていたものが違っていたことを理解できたのではないだろうか。

 

(40代男性)

 

 

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