「1973年のピンボール」の読書感想文
「人は時間の流れに逆らえないこと」、「ずっと同じ場所には留まれないこと」、「何かを得るには、それまでに持っていた何かを手放さなくてはならないこと」。そういった、ある種の喪失と再構築を繰り返しながら人は生きていかざるを得ないのだと、この本から学んだように感じる。
物語は主人公の「僕」が、全ての始まりとなった1973年ごろのことを回想する……という形で始まる。1973年と言えば恐らくは学生運動が徐々に下火になり、第一次オイルショックもやってきて、世間や人々が混乱に満ちていた頃である。そういう渦のような時代の流れの中で、「僕」は静かに暮らしていた。
その一方、大切な女性であった「直子」が自ら命を絶ってしまったことで、埋めることのできない心の穴も抱えていた。このことが原因で、時代や物事が移ろう中、「僕」の時間だけが止まってしまっていた。つらいだとか悲しいだとかいう心情ははっきりとは書かれないが、失ってしまったものがもう戻ってこないことを予感させるような寂しさが、「僕」からはずっと漂っていたように感じた。
直子の死が「僕」にとってそうだったように、”自分の力だけではどうしようもなこと”というのは、人生の中でも往々にしてある。どうしようもないからこそ、場合によっては自分の意に反することだったとしても、私たちはそれを受け入れることが必要になる。そうすることで、今までとは違った人生の景色を手に入れることができる。
けれども、このことは時にとても難しいことでもある。今まで持っていたもの(例えば最愛の人であったり、住み慣れた場所であったり、親しんだ仲間であったり、そういうもの)を手放さなければならないこともあるからだ。「僕」の置かれた立場は、まさにその「難しい状況」だったのだと思う。直子の自死を止められなかった「僕」にとって、そんな自分を許すことやその死を受け入れることは、とてもつらく混乱することだったのだと思う。
そういう痛みの伴う場面で私たちができるのは、動くのをやめないこと、事態を乗り越えようともがき続けることしかないのかもしれない。物語の中盤、「僕」が昔よく遊んだピンボール・マシンを探し始めるシーンでは、そういったことを感じた。
「僕」はマシンとの再会を果たすが、電源も入れられていない古びたマシンからは、時間が流れたこと、過去は過去としてしか存在しないことを感じたのだと思う。このことを境に、「僕」は過去と現在とに区切りをつけることに成功する。最初はマシンを探すことに何の意味があるのだろうと、読みながら訝しんでいた。一見、「僕」が抱えている問題とは関係のないように見えた行動であった。
けれどそれは無意味なものなどではなく、「僕」が動き続けたその結果として、一つの帰結を導き出せたのだと思った。そして、困難や障害、自分の力だけではどうにもし難いものを受け入れていくこと。それは、過去と別れることや目の前のことをやり直したいと願うことではなく、現在の自分と連続性のある1つの物語として、心の中に置いておける形にするということなのかもしれない。古いピンボール・マシンからはそういったことも感じた。
最初に「喪失と再構築を繰り返しながら人生は進む」といったことを書いたが、人生という大きな流れの中で何かをなくしてしまった時、どうすれば方向を見失わずに済むのか……といったことのエッセンスが、この本には示してあるように思う。ゆらゆらと漂いながらでも、前を向く気持ちを原動力に歩いてさえいれば、追い風が吹いてくると信じたい。
(20代女性)
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