読書感想文「セロ弾きのゴーシュ(宮沢賢治)」

最初に思ったのは「ゴーシュって、けっこうイヤな奴だ」と。恥ずかしながら、宮沢賢治の名作と言われているこの作品を、40歳過ぎてから初めて読んだので、ファンタジーより現実的に受け止めたのかもしれません。ゴーシュの家に訪ねてくる数々の動物との触れ合いを通じて、ゴーシュは感情が豊かになり、セロ(チェロ)の腕前が上達すると一般的には解説されている。
 
しかし私としては、読後にその解説を読んで「あ、そうだったの?」とすら思ってしまった。まず最初の訪問者、猫とのやり取りであるが、猫はゴーシュの家に来る際の「おみや」として、ゴーシュの畑のトマトを持ってくる。ゴーシュは「頼んでもいないのに、俺の畑のトマトを持ってきて、何がおみやだ」と怒る。
 
しかし猫としては、トマト自体ではなく「運搬する労力」がおみやだと言っている。両者に意図の掛け違いが起こっているが、こういうことはよくあることだ。だが根本的には、猫は「おみやを持って訪問する」という、とても礼儀を尽くした行動をとっているのである。ゴーシュはそのことを考えもせず、猫に意地悪をする。
 
次の訪問者、かっこうに対しても、最初は猫よりは和やかに接するが、かっこうから音楽について批判されてるうちにキレ気味の対応になる。第三の訪問者、狸に対しては、わりと素直な態度だ。それは狸が言った「ぼくのお父さんは、ゴーシュさんはとてもいい人だと言った」が影響しているように思える。
 

 
 
最後の訪問者、野ねずみの親子にはとても親切だ。これはゴーシュが「ゴーシュのセロを聞くと病気が治る」という、動物たちから思わぬ尊敬や敬愛を受けていることを知ったからではないか。その後、演奏本番では上々の出来。アンコールでも大盛況。最後にゴーシュは一人で、かっこうに対して「あのときは、ごめんな」とつぶやく。
 
この境地に至ったのは、結局、ゴーシュは周囲から良い評価を受けて自分に自信がついたからこそだと思う。物語の最初では、セロが下手なことから楽団の中でも良いポジションではなく、ゴーシュは不安や孤独を感じていたのだろう。自分の居場所がないとすら思っていたのでは。そういうとき、人間は他人に対して攻撃的な態度を取りがちだと思う。
 
猫やかっこうに対する態度がまさしくそうだ。まさしく「イヤな奴」。その後、狸から友好的な評価を受け、ねずみからは頼りにされ、感謝され、最後には人間から喝采を受ける。すると優しく、思いやりを持つことが出来た…。私は音楽のことはよくわからないが、「感情が豊かになってセロが上達した」ということももちろんあると思う。
 
私がまず思ったのは、ゴーシュは自分に自信を持つことが出来たことによって、素直に他人と接する手段を手に入れた、だからセロが上達したのだと。セロは自己の表現、コミュニケーション能力の象徴だと考えた。この物語は「頑ななゴーシュは、褒められたことで自分に余裕ができ、周囲を見渡せるようになった」というストーリーだと思った。
 
そもそもゴーシュはセロに対して努力もしていた。そのことは誰かがちゃんと見ていてくれている。いつかはわからないが、評価される時が来る。だから、必要以上に孤独になるなよ、というメッセージだと受け止めた。人間は孤独や不安にとらわれると、周囲を警戒したり、僻みっぽくなったりで、素直に他人の親切も受け止められなくなりがちだ。
 
そうなると、より孤独へと突き進む悪循環となる。悲しいことに中年を過ぎると、自分にも他人にも、この傾向は顕著に感じる…。「どうしてあの人は、あんなにケンカ腰なのか?」と思う人は周囲にたくさんいる。人間はそもそも孤独だし、周囲に評価されたからって、それも良いことだとは限らない。
 
しかし、過度の孤独(を感じる心)は良い結果を生まないということは真実であると思うし、そのことを自分への教訓とし、他人へもその視点で穏やかな心で接していきたいと思う。この物語を読んで、あらためてそう思った。
 
(40代女性)
 
 
 
 

 
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