読書感想文「グスコーブドリの伝記(宮沢賢治)」

人は誰かのために自分の命を犠牲にできるものだろうか?そんな事を考えてしまった。グスコーブドリは貧しい木こりの家に生れるが環境破壊を思わせる冷害に見舞われ食べる物も無くなってしまう。
 
父親はある日「森へ遊びにいってくる」と言っていなくなり、母親も父親を探しに行って帰らずグスコーブドリは妹のネリと一緒に家に取り残される。そのネリも「この辺の人を助けに来た」というおじさんが連れてってしまいグスコーブドリは一人ぼっちでとり残されてしまう。
 
グスコーブドリの家を買ってカイコ(?)工場にした人に雇われるが工場はすぐに火山噴火でダメになり、次に田んぼを作っている人に雇ってもらうことになる。不景気の連続である。グスコーブドリは勉強熱心なので田んぼの仕事でも稲を病気から救ったりして活躍するが天候不順には勝てず田んぼの仕事もダメになって町へ出ることになる。
 
そこでかねてより憧れていたクーボー博士のもとに行き火山局で働く事が出来るようになる。火山局ではそのあたり(イーハトーヴ)の火山の活動を常に監視し大噴火を起こそうとするものは先回りして小噴火を人口的に起して被害が出ないようにするというやりがいのある仕事だった。

 
 
また火山局では人口的に雨を降らせそこにたい肥を混ぜて田んぼの土を良くするという事もやった。グスコーブドリは優秀な技師として成長していった。そんな時イーハトーヴの辺りでまた冷害の危機が起こった。解決策はあるにはあったが、それには誰かが犠牲にならなければならないと言う。
 
火山を爆発させその熱で大気を暖めようというのだ。グスコーブドリは自分がやると言ってでかけ、その年イーハトーヴは冷害に合わなくて済むのである。とても淡々と書かれているのだが、そこまで読んでうーんと唸ってしまった。グスコーブドリは幼い時から冷害や火山噴火で苦労してきた。
 
はっきりとは書かれていないが彼の父親は生活苦で自殺したらしい。そんな思いをもう他の人にして欲しくない。そう思ったのに違いない。そして自分にはそれが出来るし適任者は自分しかいない。そんな時に出会う人は稀なのだろう。私のような凡人には到底ない事だ。凡人で良かったと心底思ってしまう。
 
でも自分の命を惜しがってイーハトーヴの人達が苦しむのを見るのもまた辛かったと思う。グスコーブドリにとっては残された人達が幸せになってくれると信じて身を犠牲にしたほうが穏やかでいられたのかも。
 
 
おそらく、そういう事は自分がその立場に立たないと分からないと思う。自分では気が付かない本当の自分が出てきてとにかく生きたいと思うかもしれないし、案外あっさりと死ぬ事が出来るかもしれない。どちらが正しいとは言えないと思う。人の為に身を犠牲にする行為は立派だがその後の何年もの人生で救えた命を考えるとどちらが正しいとは言い難い。
 
でも一つだけ言えるのは命の使い方を間違ってはいけないという事かもしれない。生きている間に人を幸せにするほうばかりに自分の命を使っているとは言い難い。やはり少しは人を傷つけ不幸にしているのが自分だと思う。
 
グスコーブドリほどの命の使い方は出来ないが少しでも気をつけて良い方に命を使って行きたいと考えさせられた。
 
(50代女性)
 
 
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