読書感想文「猫の事務所(宮沢賢治)」

苛めは残酷である。この物語は苛めがテーマである。いじめを受けている主人公になりきったようにに話を読み進めるとどんどんこちらが辛くなってきたり、いじめを行う他の登場人物に怒りを覚えてくる、そんな引き込まれる感じがある。同時にイジメ反対!という簡単な言葉だけでは子どもたちに伝えることは出来ないものである。何故イジメがいけないのかを実はちゃんと教えている大人は少ないように思える。
 
文自体はやさしいのだが、内容はなかなかグロテスクである。私は読みながら、いじめを受けている人間の気持ちなんていじめてる側には分かるはずが無いのだな、やっぱりと心で再確認した。人は心に何かしらの残酷さを抱えていきている。大人は勿論の事だが、素直な分、子供はある意味もっと残酷かもしれない。
 
それに誰だって神様じゃないのだから嫌いな人間はどんな善人であれ、一人や二人はいる筈だ。それがどうしても好むのが難しい存在でなるべく関わらないで済んでしまうならば無理に好む必要性も皆無だし、話もしなくていい。だけど関わらなければならない場合は本当に厄介なものである。無視する訳にもいかないし、目を見て話をしなくてはならないかもしれない、地獄に近い場合すらあるだろう。
 
私にとってもやはり好きになる努力をするのはきっと、宇宙服を着ないで真空空間で過ごせと言われる事の次の次くらいに難しいかもしれない。だからといって気に入らない人間や嫉妬した人間に対して攻撃したりするような幼稚な真似は勿論しない。私もできた人間では無いから、同じ仕事などをしていて他人ばかりが偉く評価されているのを見ると嫉妬もすることもあるし、面白くないと感じる事さえよくあるものだ。
 
しかし、だからってドラマや漫画にあるようなネチネチした苛めは実に醜いものである。この物語の主人公かま猫もいじめに合っている。上司からから可愛がられている事やもともとその容姿など全部の要素が他の猫たちから嫌われてしまっている。かま猫は寒がりでかまどで寝ている為とても顔が黒っぽく汚れていてあまり見た目が綺麗ではないらしい。最もこの場合は猫だから許されそうではあるが。
 
この物語を書かれたのは大正時代である。現代も醜い苛めなんて無いと思いたいが、実際はきっとまた、あちらこちらで起きているかもしれない。私は嫌いな人間に対して怒りを感じる事はある。しかしそれが馬鹿にされた時も生理的に受け付けない相手でも許せない事もあるが、だからといって本当に攻撃するのは気力も体力も貴重な人生の時間を使ってまでしようとは思わない。
 
私も小学生の時にいじめられた方での経験がある。それから今になってこの物語を読んでみた。昔も今も共通して思うのは、苛めを行う人間の脳内は恐らく「あいつをどう貶めてやるか」位しかないかもしれない。それで人生の歓びを感じるというのであれば実に気の毒な話である。それをなんの仕返しもせずにいる、健気なかま猫を私は物語の中に入って助けてやりたいくらいだ。そして守ってあげたい。
 
今の人がみれば「かまどで暮らすかま猫なんて可愛いじゃないか!」と絶対に褒め称えてくれそうである。もし著者が現代に生きていたらそれでもこの話を苛めをテーマに書いたのだろうか?私が書くとすればきっと、愛され猫の物語になってしまいそうだ。そうなってはただのサブカルチャーであり、ただの萌え猫ブームの一端となりそれで終わりでなんの意味も無いだろう。
 
苛めというものから目をそむけてしまいそうである。目の前の存在を貶し続ける事でなんの得があるのか?それは自分が面白くないから、そして他に楽しみが無いから、単なる憂さ晴らしではないのか?苛めを行う、或いは行おうとしている者に問いたい。そして苛めの残酷性について改めて考える機会を与えてくれた作品である。
 
そしてこの物語を例に、自分の子供にも道徳的観念も含めて伝えていけたらと感じたのだ。自らが過去に虐めを受けた経験と合わせていつか話せる機会を作ろうかと思う。伝えるべき大人があやふやな意見のままでは何も知らない子供達に教えることが出来ないのである。
 
(20代女性)

 
 
 
かま猫はどうすれば差別を受けずに済んだのだろう。夜にかまどで寝ずに、すすで汚れていなければこの第六事務所で他の猫たちと仲良く働き続けることができるのだろうか。わたしはたぶん、無理だろうと思う。かま猫は、どんな種類の猫でもかまわないとあるが、皮がうすい土用の猫はぜんぶ「かま猫」となってしまう。だから、例えすすで汚れていなくても、皮がうすいことで三毛猫や白猫のようなフサフサの毛を持っていないと、同じように差別を受けてしまうだろう。かまで寝なくても、名前でもしぐさでも容姿でも、差別を受けてしまう理由はいくらだってあるのだから。
 
この本が発行されたのは1926年、大正デモクラシーによって武士・百姓・町人以外のえた、非人と呼ばれる差別をなくす運動が行われた時代だと学んだ。授業で「部落差別」なんて言葉を聞いたときはなんだか実感がわかなかったけれど「同じ人間だけど自分と違う」という存在を、社会が創りだして差別をすることで、差別する側の団結を安定させようとしたのだということはわたしにも理解できる。差別をする側は「同じ人間」なのだから助け合えることができるように。
 
今もこの時代でも同じように差別がなくならないのは、自分と違うものを馬鹿にして優位に立つということが、純粋に楽しいということもあるのだと思う。学校でも職場でも、社会生活を送るうえで真面目に生活しようとすると、我慢しなければいけないことがとても多い。我慢をするときに「なんで自分ばかり」と思ってしまうけれど、そんなときにかま猫のような存在がいれば「あいつよりもマシだ」と思いなおすことができて、多少きぶんが楽になるんじゃないかと思うし、イライラしているときにそのイライラをぶつける相手がいれば、ぶつけた分、自分が楽になれる。そうやってみんな多かれ少なかれ、他の人と比べて自分が優位に立とうとすることで自分を保っているんじゃないかと思う。
 
かま猫が仕事を取り上げられてしまって、差別が本格的になってきたときに獅子が突然出てきて「やめてしまえ。えい。解散を命ずる」といって事務所を廃止にしてしまう。それは強引すぎるように思うけれど、この本の書かれた時代を考えたとき「部落差別運動」も「獅子」と同じだったのではないかと感じた。実際は、えた、非人だけがその運動で平等を獲得するなどありえなくて、こんな風に強引に廃止しようとしていたのではないかと思う。そういう運動は必要だけれど、まったく解決にはならない。
 
かま猫は、一生懸命にみんなと仲良くしたいと思っていた。同じ仲間のかま猫に誇られるように、自分が辛くてもこの事務所で頑張ろうとしていた。わたしは、この本を読み終わってからどうすればかま猫が望むような環境になるか一生懸命考えたけれど、どうしても答えが出せなかった。だから作者も「半分獅子に同感です」で終わりにしてしまったのかな、と思った。
 
(20代女性)
 
 
 
この“猫の事務所”という作品は雑誌[月曜]の大正15(1926)年3月号にて発表された宮沢賢治の童話であり宮沢賢治の数少ない生前発表童話の一つだとされている。簡単なあらすじは猫のための歴史と地理の案内所で四番書記として働く“竃猫(かまねこ=釜戸の中で寝る癖で煤で汚れている猫たちの総称)”が一番書記の白猫、二番書記の虎猫、三番書記の三毛猫からいじめられながらも、同じように嫌われている他の“竃猫たち”から名誉に思われている事や
 
所長の黒猫の支えもあり仕事に励み続けたが、竃猫が風邪をひいて足を腫らして仕事を休んだ日に竃猫をいじめていた3匹による讒言(事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと)により味方であった黒猫も竃猫を憎む様になり竃猫は仕事を取り上げられてしまった。
 
そして、その様子を見た獅子により事務所は解散を命じられ、語り手の「ぼくは半分獅子に同感です。」という言葉で物語は閉じられる。猫をモチーフにした童話であるが、この話は現代人こそ読むべき作品であると言えよう。宮沢賢治の作風の一つに読み手に考えさせる、つまり物語の中で答えを出さないところがあるがこの作品もそれがはっきりしていて事務所の解散を命じた獅子のセリフは「お前たちは何をしているか。
 
そんな事で地理も歴史も要ったはなしでない。やめてしまへ。えい。解散を命ずる」だけになっている。この猫の事務所においての出来事を人間に置き換えて読んでみると面白い程に昨今問題視されている職場いじめやパワーハラスメント、学閥による就労差別と言った問題と全く同じ構図になっている他、獅子が事務所に入った際に慌てて取り繕う様は獅子を労働基準監督官ないし厚生労働省労働局の担当者といった監督省庁の人間としてみるとどうだろうか。
 
2017年現在から見て91年前に書かれた童話の内容と同じ事が起きているのではないだろうか。この作品が発表されてからの長い間、そういう問題が内包されたまま時間が経っただけなのか、それとも宮沢賢治がずっと先の事を見据えていたのかそれは読者の主観になるだろう。
 
(20代男性)
 
 
 
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