「猫の事務所」の読書感想文①
苛めは残酷である。この物語は苛めがテーマである。いじめを受けている主人公になりきったようにに話を読み進めるとどんどんこちらが辛くなってきたり、いじめを行う他の登場人物に怒りを覚えてくる、そんな引き込まれる感じがある。同時にイジメ反対!という簡単な言葉だけでは子どもたちに伝えることは出来ないものである。何故イジメがいけないのかを実はちゃんと教えている大人は少ないように思える。
文自体はやさしいのだが、内容はなかなかグロテスクである。私は読みながら、いじめを受けている人間の気持ちなんていじめてる側には分かるはずが無いのだな、やっぱりと心で再確認した。人は心に何かしらの残酷さを抱えていきている。大人は勿論の事だが、素直な分、子供はある意味もっと残酷かもしれない。
それに誰だって神様じゃないのだから嫌いな人間はどんな善人であれ、一人や二人はいる筈だ。それがどうしても好むのが難しい存在でなるべく関わらないで済んでしまうならば無理に好む必要性も皆無だし、話もしなくていい。だけど関わらなければならない場合は本当に厄介なものである。無視する訳にもいかないし、目を見て話をしなくてはならないかもしれない、地獄に近い場合すらあるだろう。
私にとってもやはり好きになる努力をするのはきっと、宇宙服を着ないで真空空間で過ごせと言われる事の次の次くらいに難しいかもしれない。だからといって気に入らない人間や嫉妬した人間に対して攻撃したりするような幼稚な真似は勿論しない。私もできた人間では無いから、同じ仕事などをしていて他人ばかりが偉く評価されているのを見ると嫉妬もすることもあるし、面白くないと感じる事さえよくあるものだ。
しかし、だからってドラマや漫画にあるようなネチネチした苛めは実に醜いものである。この物語の主人公かま猫もいじめに合っている。上司からから可愛がられている事やもともとその容姿など全部の要素が他の猫たちから嫌われてしまっている。かま猫は寒がりでかまどで寝ている為とても顔が黒っぽく汚れていてあまり見た目が綺麗ではないらしい。最もこの場合は猫だから許されそうではあるが。
この物語を書かれたのは大正時代である。現代も醜い苛めなんて無いと思いたいが、実際はきっとまた、あちらこちらで起きているかもしれない。私は嫌いな人間に対して怒りを感じる事はある。しかしそれが馬鹿にされた時も生理的に受け付けない相手でも許せない事もあるが、だからといって本当に攻撃するのは気力も体力も貴重な人生の時間を使ってまでしようとは思わない。
私も小学生の時にいじめられた方での経験がある。それから今になってこの物語を読んでみた。昔も今も共通して思うのは、苛めを行う人間の脳内は恐らく「あいつをどう貶めてやるか」位しかないかもしれない。それで人生の歓びを感じるというのであれば実に気の毒な話である。それをなんの仕返しもせずにいる、健気なかま猫を私は物語の中に入って助けてやりたいくらいだ。そして守ってあげたい。
今の人がみれば「かまどで暮らすかま猫なんて可愛いじゃないか!」と絶対に褒め称えてくれそうである。もし著者が現代に生きていたらそれでもこの話を苛めをテーマに書いたのだろうか?私が書くとすればきっと、愛され猫の物語になってしまいそうだ。そうなってはただのサブカルチャーであり、ただの萌え猫ブームの一端となりそれで終わりでなんの意味も無いだろう。
苛めというものから目をそむけてしまいそうである。目の前の存在を貶し続ける事でなんの得があるのか?それは自分が面白くないから、そして他に楽しみが無いから、単なる憂さ晴らしではないのか?苛めを行う、或いは行おうとしている者に問いたい。そして苛めの残酷性について改めて考える機会を与えてくれた作品である。
そしてこの物語を例に、自分の子供にも道徳的観念も含めて伝えていけたらと感じたのだ。自らが過去に虐めを受けた経験と合わせていつか話せる機会を作ろうかと思う。伝えるべき大人があやふやな意見のままでは何も知らない子供達に教えることが出来ないのである。
(20代女性)
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