読書感想文「富獄百景(太宰治)」

私はこの作品を初めて読んだのだが、とても感情移入しやすい作品だと思った。太宰というと少しマイナスの感情が作品の中でぶつけられているイメージもあるがこの作品は日本で有名な富士山が生活をしていくなかで太宰の中で変化していく過程がとても魅力的だからである。

 

少し、恋愛小説に似ていると私は思ったのだがというのも、太宰は最初はこの富士に対してただの絵と同じだと思っているように富士に関心がない。しかし、生活をしていくなかや下宿先で沢山の人間と交流をしていく中で富士の色々な部分を発見していく姿が女性との恋愛のように見えて面白い。

 

また、小説を書くアーティストである太宰が世界遺産にもなった日本の富士に魅力を感じなかったという感情を小説で書いているのも面白い。そこが人間らしく取り繕っていない太宰を愛せるポイントではないだろうか。

 

作品の中では特に大きな事件が起きたり彼の中で大きな刺激を受けるような出会いがあるわけではない。しかし、毎日生活を共にする富士が少しずつ少しずつ太宰の中で友人というのか恋人というのかもしかしたらもう一人の自分のように距離を縮めていく姿が共感を覚える。

 

確かに、人は場所や物に愛着を覚えるように景色や自然にも愛着を覚えていく。誰にでも経験のあるが、しかし当たり前すぎて見落としがちの生活風景を表現している作品に私はとても魅力を感じたのである。

 

それこそ、太宰が過ごしたであろう御坂の下宿先は特別高級な居心地の良い下宿先であったわけではないだろう。また、そこの場所から見える富士が特別綺麗に見える絶景というわけでもなかったであろう。しかし、御坂やその付近で生活している太宰にとって会社の同僚や家族のように生活に隣接している富士の姿がいつからか、気になる存在になっているのが面白い。

 

そして、何よりも一番面白いのは太宰がその富士への表現方法がとても簡潔でわかりやすいところが良いのである。最初は印象が悪かったようで「まるで、風呂屋のペンキ画だ」という表現をしている。

 

ここまで面白く愛情も感じない表現を出来るのは太宰しかいないだろう。普通の人なら富士をたたえるであろう。旅行客や外国人などはこれを聞いたらびっくりするかもしれない。しかし、日本の富士を見て風呂屋のペンキ画と言った人間が日本の文芸界を代表する小説家だと思うと本当に興味深い。

 

そう考えると世界中の人にぜひ富士を見て、さらにこの富獄百景を見ていただけたらと思う。きっと、人それぞれの百景を感じることが出来るのであろう。そして、またどんな富士が見れたのかを思い出しながらこの作品を読めばさらに面白く感じることが出来るのであろう。

 

最後になったが、小説最後に太宰が写真を撮る部分があったが、富士だけを撮った太宰にはどんな富士が映ったのだろうか?気づけば富士を眺めながら生活をしていた太宰ならきっと富士の良さをレンズにおさめることができただろう。

 

これを見て私も富士を見に行きたいと思った。小説を通して日本の文化遺産でもある富士について考えることが出来て良い機会をもらえたと思った。私も富士を見た後にまたこの本を読みなおしてみたいと思う。

 

(30代女性)


 

 

 

 

富士山を見に旅行へ出掛けると、いつも思い出す作品がある。それが太宰治の私小説「富岳百景」だ。「富士には月見草がよく似合う」このフレーズを耳にしたことがある人も多いのではないか。

 

私がこの作品に出会ったのは、高校一年の現代文の授業だった。それまで太宰治というと「人間失格」に代表されるような、デカダンで退廃的な作品ばかりを残した作家というイメージしか持っていなかった。

 

しかしこの作品を読んでその印象は一変した。ユーモアとペーソスに満ち溢れて、痛快なストーリーだった。「富岳百景」は作家として行き詰まりを感じていた太宰が懇意にしていた作家井伏鱒二の滞在する山梨へ赴くところから物語は始まる。

 

滞在先の峠の茶屋から見えた富士山に対して、太宰は最初驚くほど意地悪な見方をする。富士山はおあつらいむきだ、とか俗っぽいやら、芝居の書き割りみたいだ、とかそれはもう言いたい放題なので可笑しくなってしまう。

 

高く、美しく、雄大にそびえ立つ富士山は当時の太宰にとってはすこしまぶしすぎたのではないかと思った。女性に裏切られ踏んだり蹴ったりの私生活だったのだから、卑屈になるのも無理はないかもしれない。

 

私にもこの感覚はなんとなくわかる。自分の目の前に非の打ち所のない立派な人間が現れたら、スゴいなぁと思う一方で、粗を探しみたり、はたまた「どうせ私なんて」と卑屈になってしまうあの感覚とよく似ている気がするのだ。

 

自分の大人げなさや自信のなさをあけっぴろげに文章にしてしまった太宰の駄目さぶりを私は好ましいと思う。人間らしい悲哀があって、ユーモアがあって親近感をおぼえずにはいられない。

 

富士には悪態ついてばかりいた太宰だったが、お見合いで結婚が決まったり、地元の人たちの温かさに触れることで徐々に前向きに変わっていく。小さく、けなげな月見草には自分自身を投影していたのかもしれない。

 

富士山のように到底敵わないものに対峙してたとしても、怯まず、逃げず、ひたむきに生きていこうと。富士山を訪れたとき、くっきりと裾まで綺麗に見えた日は私は心の中でそっと呟く。

 

「太宰さん、今日も富士山きれいに見えてますよ」と。富士山が世界遺産に登録されたと知ったら太宰はどう思うだろうか。太宰が滞在していた御坂峠の天下茶屋はいまも営業をしているということだ。天気のよい日にいつか訪れて小説と同じ風景を眺めてみたいものである。

 

(30代女性)


 

 

 

この作品は太宰治が“火の鳥”を書く為に井伏鱒二が逗留する天下茶屋に滞在した3ヶ月の間に起こった実体験を元にしているそうだ。作品の冒頭から歌川広重の“富岳三十六景”や自身の目で見た富士山、陸軍の作成した実測図から作成した富士山の断面図を比較する文言から話が始まっていく。

 

今の様にインターネットで見たい場所の画像が見られなかった時代だからこそ、太宰は東京の住居から見える富士山だけでなく十国峠や甲府から見た富士山の顔を書いたのだろうと推察出来る作品になっている。また、作品が体験した事を書いているものであるので、完全なフィクションであるものによくある矛盾はなく、読み手に太宰治自身が感じた体験を伝える作風である。

 

夜道で太宰が財布を落としたエピソードでは財布を落としたなら歩いて宿に戻れば良いと最初考えたものの、途中で来た道を戻れば財布が落ちてるだろうと気付いて元の道を引き返したエピソードをその時の状況から興あるロマンスと太宰が語る辺りは太宰治らしさではないかと思われる。

 

また、実体験から書いているものの今の様にインターネットも無ければ写真が気軽に撮影出来なかった時代だからこそ文字だけでその情景が読者に伝わる様になっていて、読んでいて中に引き込まれていく。現代では体験談などに画像を付けて書くと画像でイメージが補完されるのでそこまで情景を深く書く必要が無くなってしまうが、画像を簡単に付けられない時代だったからこそ文字だけで伝える表現力は現代の物と比較にならず、どうしたら言葉だけで情景を伝える事が出来るかと言った勉強になるだろう。

 

太宰治自身は勉強させる様な意図はなく単純に経験談を書いただけなのかもしれない。しかし、太宰から見た未来、つまり現代においてこの作品は単なる当時の話と言うだけでなく、作品の中に読者を引き込むもので、単なる読書という行為が知らず知らずのうちにそのまま学習に繋がる物となっている様に思えた。

 

(20代男性)

 

 

 

 

 

 

富嶽百景

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