読書感想文「人間失格(太宰治)」

私はうだつのあがらない人間であった。学生時代も、社会人になっても、人となじむ事ができず、どうしても孤立する人間だった。その為、事あるごとに「死んでやろう」と考える暗い人間である。あまり本を読むのは好きではないが、自殺未遂の結果、生き伸び入院するはめになり、ふと「人間失格」の事を思い出した。

 

今の自分にぴったりな心境と、青空文庫で読めることから私は本書を手にする事にした。読み始めてしばらく、私は不思議な感情に囚われた。私にとって「人間失格」の主人公『自分』は全く人間失格ではないと思ったからである。『自分』には才能があった。本を書くことも、絵を描くこともでき、有名大学に通い、たくさんの女性に囲まれる人間である。

 

更には実家はお金持ちときている。少々情けない話ではあるが、私が思い描いていた青春とはこの『自分』がおくってきた青春そのものではないかと思う。最後の若くして自ら命を絶つことまでが、私自身で描いていた人生のストーリーである。この物語のタイトルは「人間失格」である。

 

太宰がどのような思いを込めてこの作品を書き上げたのか、凡人である私には到底理解できない。ただ、世間ではこの物語は、世間から落ちた人間の哀れさを伝えるような作品として扱われている。しかし、果たしてそうなのか。私は名実ともに世間から落ちた人間である。落第者だ。

 

そんな私がこの物語を読んで思った感想は、生きることの素晴らしさ、そして天才も凡人も等しく苦しみに囚われているという事であった。「人間失格」は全編を通して暗い雰囲気で描かれ「救い」がほとんどない。その描写を落第者の哀れと取るのであろうか、果たしてこの世界に人生に救いなんてものがひとかけらも存在するのであろうか。私の答えは「ない」だ。

 

私と『自分』が似ていなく、私にとって『自分』は憧れの人間であると前述したが、私と『自分』が進んできた道は全く違う。しかし、自殺と言うその到達点は同じである。私はそこに生きる意味と人の苦しみを見た。人は無い物ねだりをする生き物である。「あの時ああしておけば」とか「あの人が羨ましい」とか「あの人と変われば自分の人生はよくなる」と多かれ少なかれ誰もが考える。

 

おそらく太宰自身もそうだったのであろう。しかし、太宰はその過ちに気づいてしまった。ひょっとしたら天才ゆえに気付かずに、この物語を記したのかもしれないが、結果的に彼が最後に残した文章は、天才の苦悩をつづる事で凡人に光を示す物語となったのだと思う。私はこの物語を読み終え、自分自身と自分自身の過去を受け入れる事にした。

 

何かを望まず、誰かを妬まず、誰もがみな等しい苦しみのもと、がんばって生きているのだと考えるようになった。この物語は絶望の淵をさまよう人間をさらに地獄に落とす物ではなく、地獄から救いあげる蜘蛛の糸である。もう自分を傷つけることはない。私は無事、蜘蛛の糸を上る事ができたのだと思う。

 

(20代男性)


 

 

 

 

「恥の多い生涯を送って来ました」第一の手記、冒頭のこの一文を読んだ瞬間に私は思った。これは私のことである。この物語の主人公は私なのだと。実際、私はもうすぐ30歳である。何を成した訳でもなくこんな歳まで生きてしまった。27歳で死んでいるはずだった。当初の予定では。そういう意味でも、私の生涯は「恥の多い生涯」である。

 

私は幼少の頃から、実にしばしば他人を楽しませる事に心血を注いできた。作中の文句を借りるなら、とにかく笑わせておけば良いのだ、という幼稚な考えである。そうすれば自分の後ろ暗い悩みや、他人に対する不信、難解な世間への恐れ(幼い私にも、自分以外の世界があり、それが非常に難しいものであることは解っていた)などに気付かれずに済むだろう。

 

そう考えた私は、あらゆる方法で他人を楽しませることを試みた。ある時、国語の作文の時間であったが、私は自分の失敗談を書いて発表した。飼い犬の背中に積み木を乗せ、嫌がるところにさらに執拗に積み木を乗せて、ついにはその飼い犬に指を噛まれるという内容を殊更悲しく書いた。先生も級友もきっと笑うという自信があった。

 

案の定、作文は大ウケで特に先生には好評であり、その作文を市のコンクールに出すという事態にまで発展した。果たして私の書いた作文は、市の発行した分厚く固い作文集に掲載された。私は恐怖に慄いた。飼い犬などいないのである。いない飼い犬に指を噛まれるはずもない。つまるところ、一から十まで嘘なのである。他人を笑わせる為に書いた嘘の作文が公になってしまった。

 

当然、両親の知るところとなる。両親は大変な名誉に感じていたようであるが、作文の内容を読んでにわかに様子が一変した。「犬など飼っていない、これはどういうことか」と言うのである。私は咄嗟に「夢の話だよ」と答えた。丸く収まった。これがいけなかった。私は他人ばかりでなく、肉親までをも欺くことを覚えた。

 

後に、「人間失格」を読み、作文で他人を欺き笑わせる話が出てきたときに、この偶然の合致に戦慄した。この物語には女性が多く登場する。カフェーで働く女給、出版社に勤めるシングルマザー、バーのマダム、煙草屋の娘などである。いずれも主人公である大庭葉蔵と、私から見れば醜関係を結んでいる。この本を何度目かに読んでいた25歳当時、私にも願望はあった。

 

女性から女性へと渡り歩く葉蔵が、どんな関係であれ羨ましかった。真似をした。正確にはその上を行った。同時に5人の女性と交際していたのである。私もまた、恋の秘密を守れる男であった。しかし、これは私の名誉の為に言うのだが、その内の誰とも関係を持ったことはない。絵を描き始めたのもこの頃である。画学生として苦悩する葉蔵に憧れてのことである。

 

私も「本当の自分(お化けの絵)」を描きたかった。今では、絵を描くことは私の生活の一部になっているから不思議である。「自分はことし、二十七になります」という一文がある。私はこの文章にひどく引き付けられた。葉蔵がモルヒネ中毒で廃人になり、修理の仕様も無いほどの茅屋で、人間世界の真理らしきものを悟った後に出てくるのだが、この言葉に囚われた。

 

「自分の人生は27歳までだ」と解釈するまでに至った。私は27歳の誕生日に、自殺を図った。薄れゆく意識の中で、猛烈な恐怖が私を襲った。自ら救急車を呼んだ。隊員に近親者の名前を訊かれ、「携帯電話の着信履歴に入っている」とだけ答えた。両親とは断絶していたので、必然的に交際中の女性たちに連絡が入ることになる。

 

搬送先の病院に彼女たちが押し掛け、女の戦いが繰り広げられたのは言うまでもない。恐ろしい本である。私はこの本を知ってからの数年間、この本に囚われ続けた。いや、未だに囚われ続けているのかもしれない。この呪縛から解放せられる日は来るのだろうか。

 

(30代男性)


 

 

 

太宰治は元々好きなのですが、何故か代表作である「人間失格」は読んだことありませんでした。暇があったのでちょっと読んでみよう、と思って読んでみると流石代表作だけあって一気に世界に引き込まれました。その後すぐに2回読み返したくらいです。主人公の大庭葉蔵は常に周りに、そして自分に絶望し、道化を演じて過ごしましたが最後には人間の世界から外れてしまいました。

 

しかし、面白いのは、葉蔵が常に暗い方向へ思考し、死ぬことを考えるのは余裕があるからだということです。葉蔵は政治家の父を持ち、幼い頃は金銭的に何不自由ない生活をしていました。もし、生きるのに必死な人間なら常に周りの目を意識し絶望し死にたいなんて考えないと思います。この考えに至った時、私はひとつ学びました。

 

余裕のある人間は余計なことを考えてしまう。つまり、逆に言えば余裕がなければ余計なことを考える暇などないということです。例えば何か仕事をしなければいけない時に、「忙しくてできない」「時間がないからできない」という言い訳を言っていましたが、そもそも余裕がなかったらそこまで思考が至らないと思います。あれこれ考えて言い訳をしているだけなんです。

 

また、「人間失格」の最後はバーのマダムの「あれでお酒さえ飲まなければ、神様みたいないい子でした」(一部略)という台詞で締めくくられます。私はもうすぐ成人でお酒を飲める年齢になるわけですが、この話を読んで飲むのは絶対に程々にするべきだと思いました。

 

葉蔵が「人間失格」になってしまったのはお酒の力が大きいです。物語だからオーバーに書かれていると思いがちですが、心が弱ければハマってしまい中々抜け出せなくなるのがお酒とクスリだと思います。この話はある意味それに関して一つの教訓として受け止めるべきだと思いました。

 

太宰治の代表作である「人間失格」という物語はストーリーとして楽しむだけでなくこのような教訓、反面教師的なものを私に教えてくれました。しかも、それだけでなくあまりにも主人公が自虐的なのに自意識過剰過ぎてそのよくわからない矛盾みたいなのも面白くて笑えることも出来ました。これは何回も読み返すお気に入りの本の一つになるな、と思いました。

 

(10代女性)


 

 

 

10数年ぶりにこの本を読み返し、衝撃を受けた。以前読んだ時には暗い印象しか残らなかったが、その時と今とでは自分自身の生き方に変化があったせいか、全く違う印象を受けた。特に、「世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。」という、世間についてのくだりが印象深かった。

 

私も主人公の葉蔵と同じように、物心ついたときから、周囲の望む自分像、周囲の望む発言、態度、そういったものを意識し、選択し続けていたのではないかと気付き、ハッとした。実体のないものに怯え続け、結果的に自分の本心とは違った態度を取ることで矛盾が生じて生き辛くなり、様々な人間関係に息苦しさを感じてきたのではないか。

 

世間が望むものではなく、自分の本心は何なのか、自分の心に嘘をつかず正直に生きるとはどういうことなのか、物事の本質を見極めるとはどういうことなのか、葉蔵の言葉によって考えさせられた。この小説を読み返さなければ、自分自身について見つめ直す機会はなかったかもしれない。

 

私は私自身の考えによって、自分を生き辛くしていたに過ぎないと気付いた。本心を話してはいけないといつからか考えるようになり、自分の考えを言うことに罪の意識を感じるようになっていた。嫌われることが恐ろしく、周りの全員に好かれたいと思っていた。そうでないと生きている意味がないと考えていたからだろう。

 

実体のない「世間」という漠然としたものに、自分を縛られていた。世間というものが、何なのかを考える機会を与えられたことで、その縛りから解放された。陰鬱な気分になる場面も多いし、実際に苦しく辛い小説なのかもしれない。でも私は、この小説の一端から希望を得た。生き辛さから、少しだけ解放された。

 

幸も不幸も自分の心が作るもので、自分の考え方や捉え方によって全てが変わっていくのだと、私はこの小説に教えられた。この先また何年か経った頃に読めば、また違った一端から希望を得ることができるかもしれない。ただ単に憂鬱な気持ちになるか、ほんの些細な一言から希望を得ることができるか、またそれも自分で決めることができると思うと、明るい気持ちになるのである。

 

(30代女性)


 

 

 

人間失格の主人公は絵と文章の両方をやっていた洋画家の画塾で堀木という男と知り合い嗜好品の味や女遊びを教わるようになるのであるこの男との出会いの影響で主人公男性がある意味堕落した習癖が身についてしまったということはあるかもしれない主人公は男性ですがありふれた平凡な毎日が苦手で恐怖感を抱いていてちょっと精神的に病んでいるタイプなのだ

 

精神病の毛があると思う最も顕著な病状は普通の生活に恐怖感を抱いていることである物語の中でたくさんの女性が出て来るがその中のツネ子という女性と鎌倉の海に飛び込んで無理心中しようとするが自分だけ生き残り自責の念にかられる様子が描かれてある正直言って自分だけ生き残るなんてちょっと最低って気もしないでは無いでも本当にそうなってしまったのだ

 

物語上のこととは言え度肝を抜かれるシーンである主人公は女たらしというより女性と出会うとすぐ一緒に死んで欲しいせがむ怖い癖があるのだったそれはとても厄介な習癖で考え方によってはある厄病神と言っても間違いないだろう人を不幸に誘い帰らぬ人にしてしまうのだからズバリご命中の一言だろう

 

この人間失格と言う物語の中で主人公男性はたくさんの女性と交際をするが結局ヨシ子という奥さんをもらうでもこのヨシ子が目の前で商人に襲われるのを見てしまって自殺を考えるようになるが未遂に終わるまあこの作品の主人公は幸薄いお世辞にも順風帆とは言えない乱れた変化の多い人生であることはまず間違いないだろう

 

また原作者の太宰は人生の中で最後モルヒネ中毒になってしまいお仕舞いには不倫相手の山崎富栄と玉川上水で心中したのだ作品もすごくショッキングな内容だが作者の人生も波乱含みでショッキングだらけなのである察するところもちろん彼も作品の登場人物と同じで精神病だろう

 

この物語の原作者の太宰治はある意味自分の日常をそのまま作品に投影しているような結果になっているとも言えるだろう

 

(50代女性)


 

 

 

「恥の多い人生を送ってきました」という書き出しの一文が、作者、太宰治の正直な気持ちであろう。太宰治は昭和初期のカリスマ作家で数々の名作を残したが、39歳の若さで愛人と共に玉川に入水して亡くなっている。私は太宰治の小説というより、彼の「心の中」に興味があった。薬物中毒や自殺未遂というトラブルに満ちた私生活、はまさに「破滅型作家」の典型である。

 

今となっては診断できないが、精神医学的に境界性人格障害や統合失調症、双極性障害が疑われるようだ。じつは私も双極性障害と診断されているので、太宰治の破滅型思考や行動が理解できた。小説の主人公は、東北の裕福な家庭に生まれた大庭葉蔵という男であるが、彼は幼いころから「普通の感覚」が分からなかった。

 

また、自分が空腹であることも理解できず、自分の感覚が人と違うことや、恐怖心を悟られないために幼少の頃から道化を演じるという手段をとってきたが、学生時代に、自分よりも学力が劣り貧弱な竹一に、心の中を見透かされてしまう。その後、東京に進出し、酒とたばこと女に溺れる人生を歩むことになる。

 

唯一、葉蔵が結婚しようと思い、浴びるほどに飲んでいたアルコールを断つことを約束した自手、ヨシ子は「信頼の天才」だった。人を疑うことを知らないヨシ子は、葉蔵の仕事仲間に暴行されてしまう。葉蔵は睡眠薬を飲み、吐血、その後モルヒネ中毒となり、親戚、友人によって病院に連れていかれる。

 

この小説で描かれている、葉蔵の幼いころからの生きづらさや世の中への違和感。また、「普通の感覚が分からない」という孤独感は、小説では言及されていないがおそらく葉蔵自体が持って生まれ持ったなんらかの「精神的疾患」が原因だったのではないかと思う。現代ではあらゆる疾患に名前が付き、薬で治療することができる。

 

「太宰治の遺書」といわれるこの小説で、彼が幼いころから彼なりに、自らの病と闘ってきたことや、道化から廃人になるまでの移り変わりを伺い知ることができ、また私自身と重ね合わせることで、繰り返し、深く読み入ることが出来る、非常に印象深い小説だった。

 

(40代女性)


 

 

 

私は自宅の家の本棚の片隅に置いてあったのを偶然発見したことによってこの本に偶然出会った。それはそれは有名な本なのに今の今まで読む機会がなかったのだ。最初はなんとも暗くて救いようのないタイトルだなと思っていたので読むことを私は今まで避けていたがいざ読み始めるとその古めかしくも鮮やかな文体に魅了された。

 

あとあと作者の太宰治について調べてみるととても異性に人気だったらしい。これほど言葉を使った表現に長けている人間が周りを引き付けないはずがないのでまあ当然だろうと思った。本の内容は3部に分かれていて元々は素直な子供が人間の醜さ、社会の恐ろしさに触れることによって堕落していく様が描かれている。

 

まさにタイトル通り人間失格といったところだろうか。この本の主人公には共感できたという人間も多いのではないだろうか。主人公は子供の頃周りの家族に以上に気を使い頭はすごく良いのにわざとしたくもない馬鹿のようなふりをするといったことをしている。これは他者という得体の知れないものに対する恐怖から来ている。

 

なぜ主人公がこうなったかというと幼い頃に家の家政婦たちから性的ないたずらをされたという過去からくるものであると思われる。そうして仮面を被りながら生きてきた主人公は人の心を動かしのらりくらりと自己韜晦しながら生きていった。作者の太宰治がモチーフとなっているということもありやはりほの主人公も羨ましいほど女性にモテるタイプの人間として描かれている。

 

そう考ええると太宰治の表現力は他者への恐怖心から来たのかも知れないと考えると面白いものがあるだろう。なんども自殺未遂を図った主人公は最後にはモルヒネ中毒になりもはや廃人同様の姿として描かれている。その姿は想像するだけで凄惨なものであるといえよう。私はこの文章には現代にも通ずる強い力が込められていると思います。

 

この文章を1週間ほど前に初めて読みましたがまだなんとなく鬱っぽさが抜けません。人生陽気に過ごしたいという人には進めませんが暗いもの影があることが好きな方にはこの文章の美しさがわかると思います。

 

(10代男性)

 

 

 

 

人間失格

人間失格

posted with amazlet at 18.08.05
(2012-09-27)

 

 

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1 件のコメント

  1. より:

    小六から純文学に興味が有り、やっと最近、太宰治の『人間失格』を手に取りました。
    一年前には周りの大人達から、

    「死にたくなるから止めろ」

    と読むのを止められて居ましたが、流石に中学生になったと云うことで、渋々親に貸してもらいました。
    読んでみると、実に面白く、同時に、「確かに普通の人なら容易に感化されそうだ」と思いました。
    何故そんなに人間で有る事に拘るのか、俺には理解出来ません。真面目な話、「人間失格だと思うのなら、今すぐDNA鑑定してこい」と思ったぐらいなので。ですが流石の俺も、此の人間失格はそう云う意味で無い事ぐらい分かります。
    彼、葉蔵は純粋で、あまりにも一般的で、社会で云う『人間』らしかったのだと思います。
    この世に出ている『答え』に甘えず、全てに疑問を持ち、そして其の疑問に対する世の答えが納得いかなかった。
    葉蔵は、良く云えば探求心が強かったのだと思います。世に出ている答えは、本当に正しいのか、そうでないのか。其処から葉蔵の悩みは始まったのだと思います。
    そして、明確な答えが無いと誰しも不安になるもの。葉蔵もそうだったのです。
    皆さんは如何ですか? 答えが無いと不安でしょう? すがり付くものが無いでしょう?
    葉蔵には、此れが恐かったんだと思います。
    すがり付くものが無い。詰まり、自分を助ける、甘やかしてくれるものが無い。
    葉蔵が純粋すぎた故に、何事も割り切れず、其れを人にも理解されず、理解してほしかった葉蔵は彼処まで荒んで仕舞った。
    俺はそう考えています。
    自分の中に『人間はこう在るべき』と云う人間らしい価値観が有って、其れを満たさないのは人間を失格したのと同じ。相手に受け入れて貰えなければ、自分には価値が無い。そう思っていたんじゃないでしょうか。
    葉蔵はニヒリストではないか、と思う方もいらっしゃるでしょうが、葉蔵は全くもってそれとは遠い処に居るのです。

    葉蔵は非常に人間らしい人間だったのではないでしょうか。

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