「三四郎」の読書感想文①
作品のはじめのほう、九州から上京する電車の中で主人公の三四郎が窓から弁当を投げ捨てる場面がある。
当時の奔放なゴミの処理の仕方にも驚くが、向かいの席の窓から顔をだしていた女性の顔に弁当箱を当てるとは、今なら考えられないハプニングだ。
女性は怒ったり責めたりしなかったものの、現代では下手したらマナーがなってないとニュースや新聞などでとりあげ、咎められかねない。
それくらい今の人は電車やバスの中で、暗黙の了解というか不可侵条約を結んでいるが如く、狭い空間に密集し、肩が触れんばかりに人と隣あっていても、干渉しあわない。経験からして、この傾向は日本人特有のものではないかと思う。
というのも前に高速バスに乗ったとき、隣の席の中国人に広げた地図を指差しながら、地名の読み方をしきりに聞かれ、結局降りるまでつきあった覚えがあるからだ。
正直眠たかったし、相手にするのが煩わしくて嫌な顔をしていたと思うが、すこしも察することなく「すみません眠たいんで」と断ってもかまわず、無邪気に話しかけてきたのが印象的だった。
かといって正反対に移動中、ずっと黙りこくってむっつりしている日本人が、他人に無関心なわけではないと思う。むしろ人を気にしすぎているのだろう。これも経験で、赤ん坊を抱っこした女性と電車で席が隣になったことがある。
赤ん坊は静かだったし、多少泣いてもかまわないと思っていたから、指定席で不運だなと別に嘆くことはなかった。それでも、降りる頃にはくたくたになっていた。
とくにトラブルが起こったわけでもないし、黙って座っていただけにも関わらずだ。本当に赤ん坊が目障りだとか、うるさいだとかは思わなかった。
ただ、肩身を狭くしているように見える隣の女性が、私がそう思っていると思ったら、さらに縮こまってしまうのではないかと気にしていた。だから、赤ん坊なんて目に入ってないですよと言うように、すました顔をしていた。
無関心を装うこと自体労力がいるのに、相手に演技がばれるのではないかと内心びくびくしていたから、そりゃあ疲れるというものだ。
私の場合は気を回しすぎなのかもしれないが、車中の沈黙には同じように気にしていないふりを無理してしているような意志を覚えさせる。そもそも狭い箱の中に大勢でいて、人に無関心でいられるはずがないくせに、皆一様にそしらぬ顔をしているほうが不自然なのだ。
気になりつつも気にしないふりをする人もいれば、気にならなくてもつい必要以上に気にしていないアピールをする人もいるのだろう。中には気になってしかたない、どうにかしろと声高に訴える人もいるが、大多数は人に自分が気にするような人間だと思われたくないのだと思う。
主人公の三四郎もその傾向が強い。なにせ、例の弁当箱をぶつけた女性に、宿を紹介してくれと頼まれた挙句、同室になって風呂場まで入ってこられたのになにも言えなかったくらいだ。そして別れ際女性に「あなたはよっぽど度胸のないかたなのですね」と言われてしまう。
二度とこんな恥ずかしい目に合いたくないと思ったのだろう。それからは、もっとガードを固くして、とくに女性に対してはすました態度をとろうとする。
象徴的なのは、三四郎が丘にいた女性二人を見つける場面だ。その坂の下には石橋があって、そこを渡らなければまっすぐ大学に、渡れば水際の自分の元にくることになるというので、彼女たちがどうするか三四郎は気にするのだった。
この気持ちは分からないでない。例えば、空いている電車の中で、自分の傍に誰かが座ったら意識するのと似ているだろう。
果たして、彼女たちは三四郎の元へくる。とくに話しかけたくて来たようには見えないものの、たぶん三四郎は、彼女が自分に気があるのではないかと僅かながら思ってしまった。
そんな自分を恥じて、またばれないように以後努めて、別に女性には興味がないですよという顔をしていたように思う。
でも、女性のほうは、馬鹿みたいな勘ちがいするくらい自分に興味を持ってくれたほうが嬉しいわけだし、必死に取り澄まそうとする三四郎を却って微笑ましく思ったかもしれない。そのことに気づけなかった三四郎は哀れだが、やはり微笑ましく思える。私も人のことが言えない。
私の場合、ばれて恥ずかしいというより人に気にないふりをさせるだけ気を使わせていることを相手が悪く思い、もっと気兼ねするのではないかとそこまで心配してしまうのだ。気の回し方にきりがなくて我ながら疲れるし呆れるが、でもやはり笑えもするのだった。
(20代女性)
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