読書感想文「硝子戸の中(夏目漱石)」

「硝子戸の中」は病後間もない漱石が自宅の書斎で綴った三十九編から成る短編集である。体調が思わしくないのか、葬儀や死についての話が多いのも気になるところである。1日で読めるほどの小さな作品ではあるが、漱石の性格、人生に関わった人々、幼少期の体験について知ることが出来る貴重な本だと思う。

 

十一編に漱石に自分の書いたものを見てもらいに来た女性とのやり取りがあるが、漱石らしくて実に良い。「私はこれから貴方の書いたものを拝見する時に、随分手ひどい事を思い切って云うかも知れませんが、然し怒っては不可せん。貴方の感情を害する為にいうのではないのですから。その代り貴方の方でも腑に落ちない所があったら何処までも切り込んでいらっしゃい。」

 

有名な作家になっても一般の人と真剣に付き合う漱石の律儀さが出ていて、感動せずにはいられない。漱石は正直に生きることを自分自身に課した作家であるが、教養があり親切な普通の紳士だったら私はこんなにも漱石のファンにはならなかったと思う。

 

幅広い知識から紡ぎ出される美しい文章の中にどこか狂った部分がある。理性的な漱石という人間の奥深くに常に狂気がある。それが漱石の作品の魅力ではないか、と考える。三十一編に幼馴染みの喜いちゃんに太田南畝の本を返してくれと言われた時のことが書かれている。漱石は「私の言い分はこうなのだ。」というつもりで書いたのかもしれないが、その時の漱石の対応は頑固を通り越して異常である。子供の頃から精神的な病があったのかと思わせる話であった。

 

 

 

嘘が嫌いな漱石であるが、1か所だけこれは真実なんだろうかと思ってしまう記述がある。この本の最後で漱石は生みの母、千枝について書いている。漱石は幼少期に年をとってからできた子供という理由で、2度も養子に出されているため母の記憶がほとんどない。漱石の記憶の中の母はいつも紺無地の絽の帷子を着て、幅の狭い黒繻子の帯を締めていたということからもいかに母との思い出が少ないかが分かる。

 

それでも漱石は「宅中で一番私を可愛がってくれたものは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶の中には、何時でも籠っている。」と書いている。漱石が母を慕っていることは間違いない。しかし母はどうだったのだろう。1度目の養子先から可哀想だと連れ帰ったのは母でなく、漱石の姉である。これが姉でなく母だったらどんなに良かったろう、と思う。

 

漱石は自分が困っている時に助けてくれた母の話を書いている。夢なのか本当なのか分からないという。漱石には悪いが私は夢だろうと思う。父に愛されなかった漱石は母からは愛されていたのだと思うことで心の平穏を保とうとしたのではないだろうか。「お母さん、私をもうどこへもやらないでください。」と幼い漱石は言いたかったはずだが、賢すぎる少年はその言葉を伝えられなかっただろう。

 

(50代女性)

 

 

 

硝子戸の中

硝子戸の中

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(2012-09-27)

 

 

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