読書感想文「死にぞこないの青(乙一)」

少しおとなしく、自分の意見が言えないこと、怖がりだということを除けば一般的な小学生のまさおが主人公のクラス内でのいじめをモチーフにした物語である。この、お話は現実にあり得ることでありそれが怖さをましているのだ。この話を読んで私も小学生時代を思い出したのである。
 
作中では、ささいなことで羽田先生という新卒の先生にめをつけられるのだが、そこから先生が行う集団のいじめが行われ人間の自分を一番に考えるところが独特な視点で表記されていて、陰湿さ、闇が手にとって分かるものであった。羽田先生が話す文面での、クラスでの独裁は人間だれしも陥りやすい考えであると感じた。
 
生徒の親、職員、生徒たちに好かれるには、クラスに一人悪者が居ればいいのだ。人間自分に降りかかってこないことは、他人事に考える生き物であり、自分がその一人になることはしたくない。しかし、誰かで調節を図りたいと考える愚かな生き物である。
 

 
 
それは、大人であっても子供であっても生きていく中で、ありえることなのだ。生徒が、文句を言わなければ保護者の評判も上がり、好かれていれば職員内での評判も上がる。一人に恨まれて、ほかの人からは好かれるならばいいのだ。結局人はだれかに評価してもらうことを一番に考えていると感じた。作中の生徒たちも先生が一番と考え、疑わない。
 
自分でないからいい、その役目になるほど馬鹿なのだと思うようになっているのだ。私も小学生時代はなにも疑わなかった。信頼を置ける人が言っているのだから間違いないと幼いからこそ、時として善悪が分からなくなるのだ。教えをこう先生によって子供の価値観も変わってしまうと感じるし、最初疑問に思っても言われるがままにすることで、思い込みがうまれ、やがてそれが現実、その子の結果だと真実が変わってしまうのだ。主人公の実際学力はは普通である。
 
しかし、羽田先生がおまえはできない。といった洗脳をすることで自分自身を信じることができなくなり、やがて存在意義も見出せなくなるといったことが起きるのだ。これは社会人でもおきるのだ。何気ない言葉で傷つき存在意義を傷つけられたひとは自殺という最悪な結果を生んでしまう。
 
これは、上の立場の人間の責任であることをこの作品を読んでせつ感じることができた。人の許容範囲はその人生を振り返らねば分からないのだ。他人には分かりえないし、自分でもそこまで思いつめねば分からない愚かな生物である。ここから、まさおは自分の憎悪を具体化したアオという人物像に行き、羽田先生に復讐することを決めるのだ。ここで感じるものは、具体化まで進んだ人の心理状態を小学生で起こってしまうことだ。
 
二重人格というものは知られているとおりに、つらいことは自分のもう一人に託さねば生きていけないようになるのである。抱えることができる辛い範囲を超えるともう一人の自分がでてくるのだ。人間の防衛本能が生まれた瞬間である。そこから、次なる自分を選択し要所ごとにでてくる。これは虐待を受けていた子供に多いと感じられる。自分が誰かわからない辛いことは客観的に感じないと保てないといったことが私にもあった。それを再確認できた作品であった。
 
(20代女性)
 
 
 
 

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