読書感想文「沼地のある森を抜けて(梨木香歩)」

この世の中は、「男」と「女」で構成されている。男女がお互いを好きになり、結婚し、子供をつくり、その子供がまた異性と出逢い…。そうやって、私たちはこの世界を維持し、発展させている。しかし、そもそもこの「男」と「女」という壁とは、性とは、いったい何なのだろう。

 

私の育った家庭は、両親ともにフルタイムで働き、家事も分担していた上に、男女比も同じ。ゆえに家庭内の男女間はいつでも同等で、どちらが優遇されることも、性による区別もほとんどなかった。「男は外で働き、女は家を守る」といった社会的概念が極力排除されたその環境で育った私は、家事や子育てが女性の仕事だという意識も、男性に養ってもらうという意識も持ち合わせずに現在に至っている。

 

さてこういう女性は、社会的にみればあまり「女性的」ではないのかもしれない。しかしそんな私が出逢い、結婚した相手は、家事を当たり前のように自分の仕事としてこなし、仕事は気負わずそこそこで、生活が自分一人で営める人間同士が二人でいれば、やっぱり生活は営めるよね、という考え方の、私と同じような感覚の持ち主だった。

 

 

 

私と夫は、社会が一般的に認識している男女の役割とはかけ離れた生活を送っており、そうすることでお互いが気持ちよく生活できることを知っている。けれども時々他人からは、収入の多くない夫について同情する声や、家事が適当な私に対する叱責をいただくことがある。そんなとき私は、それはそれぞれ同等に背負うべき役割だから問題ないのだ、と反論するのだが、多くの場合は腑に落ちないような反応をし、最終的に「女性としてどうか」「男性としてどうか」という話になっていく。

 

物語の中で久美は、自身に課せられた先祖から続く「女性としての役割」に抗い、風野は成長とともに自身の中に刷り込まれていた「男性としてのふるまい」を捨て去ろうとしている。男性らしさ、女性らしさを放棄しようともがいていたこの二人が、出逢い、それぞれの属する性の社会的役割とはかけ離れた部分で、対話をし、化学反応的に惹かれ合い、一つになる。ここに、この世界の性の本質が描かれていると私は感じ、二人の形に共感せずにはいられなかった。

 

本当の性差というものは、役割での区別ではない。「女性としてどうか」「男性としてどうか」ということは、社会が形成される過程で作られていった通念であり、本質的ではない。「男」と「女」の壁は、異質な個体同士が出逢い、その出逢いによって変化をし、新しい世界を作りだすために存在する。性の本質とは、違う個体同士が、違う個体であるがゆえの孤独を埋めるため、その閉ざされた境界を開き、新しい世界を受け入れ、そのバトンを先へ渡していくということなのだ。

 

私と夫の間にもいつか子供が生まれ、成長していく。誰かと出逢って恋をしていく。それは役割から役割を繋いでいく作業ではなく、この世界を新しい世界へと生まれ変わらせ、命を、世界そのものを繋いでいく作業なのだということ。なんとロマンチックな作業だろう。久美と風野がそんなふうに結ばれたように、また私と夫がそんな家庭を築こうとしているように、まだ見ぬ彼に、彼女に、いつかそんなふうに育ってほしいと私は願う。

 

先祖代々受け継がれてきたぬか床。その世話役が主人公へと回ってくる。そのぬか床はただのぬか床ではなく、うめいたり、卵を生みだしたりする。現実的な日常描写からの導入に、突然現実ではありえないぬか床が現れ、ファンタジーなのかオカルトなのか、ホラーなのかよく飲み込めないままストーリーが進んで行く。しかしその超現実的な設定を経由することで、物語は逆にリアリティを増すのかもしれない。

 

私はこの物語を読んで、これほど自分自身の心にぴったりと寄り添うような、リアルな話はない、と感動した。自分自身の性別に対して課せられる社会的役割に疑問を持つ人は今の時代少なくないと思う。そんな、社会の中での「男」「女」のあり方について少し変わった切り口で考察できた。

 

 

(30代女性)

 

 

 

 

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