読書感想文「海(小川洋子)」

表題作「海」では冷静さを保ちながら優しくいられるということがどういう空間であるかということを感じることができた。なぜ受け入れられるかをわざわざ考える必要もなく、自然に受け入れることとはなんと美しいことだろう。

 

主人公と一緒に、私自身もオポッサムの死に真似について注意深く耳を傾けてしまうのだ。そして、おばあさんの対応にもこだわらず静かにありのままを受け取るのだ。「風薫るウィーンの旅六日間」ではフリープランの名にふさわしく、主人公は思いがけない出会いで予想外の過ごし方をすることになる。

 

 

 

これこそが旅の醍醐味かもしれない。一人であれをしようこれをしようと決めておき、それをこなす旅ももちろん満足感はあるだろうが、旅で出会った人によりなぜか全く別の過ごし方をすることになる、なんと興味深い経験だろう。

 

捉え方によっては琴子さんはただのうっとうしいオバサン、それが積極的な気持ちではなかったにしろ受け入れることで自分一人では起こりえなかった時間を知り、知らない世界を覗くことができるのだ。私達が送る日常においてもこういう分岐点は沢山あるのだと思う。

 

「自分が思った通りに」生きるのは気持ちが良いのかもしれないが、「思いがけない方向に」行ってしまうことも人生の醍醐味ではないだろうか。あまり保守的にならず生きていくことも大事だったな、と気づかせてくれる。

 

「バタフライ和文タイプ事務所」。決まった手順でこなす固い仕事。ひっそりと存在する目立たない事務所。どこにでもありそうな空間。和文タイプという変わった仕事から漢字についてふむふむと興味深い世界に引き込まれていたら、最後に急展開。医学部論文ということからこの着地点が導き出されるんだ、という感じだ。性的な魅力に結びつく職業って意外と色々あるのかもしれない。

 

「銀色のかぎ針」。わかるなぁ、と思った。母はもう編むことはないけれど子供の頃に編んでもらった毛糸のポシェット、とてもうれしかったことを思い出した。妹に編んであげたマフラー、上手ではなかったのにとても喜んでもらって戸惑うくらいだったことを思い出す。子供にとってうれしいこととはこういうことなのだ。記憶のページをまた一つ開く機会となった。

 

「缶入りドロップ」。日常の楽しみ方ってこういうところにあるのだ。私もこのバスのおじちゃんのように人生を楽しくしていきたい、缶入りドロップの代わりに何を持とうか、そんなことを考えた。

 

「ひよこトラック」。日常、私はささやかな沈黙が怖くてどれだけ早急に言葉を発していることだろうと思った。今よりも上手に言葉を紡ぐことができなかった子供の頃、沢山の沈黙の中でごちゃごちゃした思いをうまく出せないでいた。そんな自分が嫌で身に着けた「会話をうまくつなげる」技の数々。

 

でも、少女とドアマンのように、余計な言葉を発することがないおかげで見えるものも、わかることも沢山あるのだった。早く済ませるために言葉を出すのではなく、ゆっくり受け止めて一緒に物事を見つめることを思い出させてくれる。

 

「ガイド」。小さな、静かな世界のお話。シャツ屋とか題名屋などありそうにないものがあることで、実はこの世界はバランスを保っているのかもしれない、と感じさせてもらえるところがとても気に入ったのだった。

 

冷静な視点と優しさは共存することができるということを感じさせてくれる短編集。今の自分にそんな優しさは欠けていないだろうか、と考える時間にもなる。優しい空間にホロッときてしまう場面もある。そんな空間は自分が発見できていないだけで、実はすぐそこにあるのかもしれない。

 

(40代女性)

 

 

 

 

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