読書感想文「スノードーム(アレックス・シアラー)」

 
子供のころ、ふと自分は漫画のコマに描かれるキャラではないかと、思ったことがある。巨人のようなものの手で、原稿に描かれたその物語を自分は生きているのではないかと。何故そう思ったのかは分からないが、周りに人目がなくても、常に誰かに空の上から覗かれているような感覚がして、今でもそれはある。ただ、逆の感覚になったことはない。空の上から覗く立場というのに、なりたいとも思ったこともない。
 
この作品では、まさに、覗く人間と覗かれる人間がでてくる。覗く人間は、エックマンといって、芸術的才能と商才を持ち、金に不自由しないながら、容姿の異様さから人々に疎まれ、孤独に苛まれている。才能があって賢いのに、周りに受けいれてもらえないエックマンをはじめは、可哀想に思ったが、読んでいくにつれ、好きな女の人と、慕ってくれる少年を、どうして平気で苦しめられるのか、理解できなくなっていった。
 
しかも少年は、エックマンを見た目だけで判断せずに懐いてくれた大切な人だった。好きな女の人の恋人が、少年の父親だったとはいえ、少年は直接、彼を馬鹿にしたり傷つけたりしなかったのに。大事な人を痛めつけても、悲しくなく、むしろ喜びを得る感覚というのが、分からない。確かに、人から攻撃されたり理不尽な仕打ちをされれば、相手にも同じ目にあってほしいとか、なんならもっと不幸になればいいとは、思ってしまう。

 
 
でも実際、中々相手を苦しめ、痛めつけることはできない。怒り悲しみながらも、心のどこかで分かっているからだ。相手が絶対の悪ではないということを。自分には嫌な奴でも、他の人にとってはかけがえのない存在でもあるし、自分が嫌と思っただけで、相手に悪気はないかもしれないし、そもそも、自分が嫌だということに気づかない相手を鈍感と責めるのは、それこそ理不尽に思える。相手が自分のことを、ずっと見て考えてくれていると思うほうが、おかしいし、恥ずかしい。
 
じゃあ、エックマンのような男が、恥知らずで、自分をおかしいと思わないくらい、頭がおかしいのかというと、そうではないと思う。現実世界でも、たまにエックマンのような人を見かけるが、分かりやすい例が、年がら年中悪口を吐いている人だ。傍からすれば、ああこの人は、他の人の気持ちをすこしもが分からないのだなあ思うものを、実は人から悪口を言われるのを、ひどく恐れているし、ちょっと言われただけで、驚くほど憤慨したりする。
 
ということは、人が悪口を言われたら、どういう思いをするかは、分かっているのだ。エックマンもまた、分かっているはずだ。一方的に人から見下され、ないがしろにされる思いを、人に認められず、世界に一人だけ取り残されたかのような孤独を。自分がされて嫌だと思うことを、人にはできないものだと、考えてしまうが、そうでもなさそうだ。
 
案外、自分が嫌な奴だと思った人間と、同じレベルになって人に嫌なことをするのは、嬉しいものなのかもしれない。すくなくとも、死ぬまでエックマンは幸福そうだった。死んだのは天罰のように思えるも、ばれなかったら、もっと長く幸せでいられたのではないかと思う。
 
自分もできれば、そうなってみたいものだが、あいにく、子供のころに錯覚した、空の上からの視線を今でも感じてしまうのだ。ばれないようにして、嘘をついたり、ずるをしたり、悪巧みをしても、すべて筒抜けとばかりに、空の上から指をさし笑われているように思え、どうも落ち着かない。それこそ、自分がやられて嫌なことを、嬉々として人にやっていたら「お前、どんだけクズなんだ!」と腹を抱えて笑われるように、思えるのだった。
 
(30代女性)
 
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