読書感想文「肩ごしの恋人(唯川恵)」

世の女性は、きっと誰もがるり子であり、萌でもある。私はどちらかといえば萌だ。萌のいう、優しいのも、可愛らしいのも、女らしいのも見かけ倒しで、皮を一枚めくれば、気紛れで、自惚れ屋で、浅はかで、さらに誰よりも自分が大好きなるり子みたいな女なんて大嫌いだ。現にるり子タイプの女の割を食わされてきた、何度も。

 

女なんて大嫌い。女なら一度は思うことだろう。そして、そんな女と同じ性別である、つまるところ「女」に、自分も属することに嫌悪感すら抱くことだってあるはずだ。萌タイプの私には、るり子はどうしても好きになれない思考回路と行動パターンの持ち主だった。しかし、るり子は見かけ倒しの自分大好き女のなかでも突き抜けていた。そんな自分を隠すこともしなければ言い訳もしない。そしてその価値観の違いを持つ女がいることに疑問は持っても否定はしない。

 

そんな女にいたたまれないとは思っても、決して馬鹿にしたりしないのだ。なにより、るり子の持論が面白い。萌を黙らせ、心の隅では納得さえさせてしまうその持論は、萌タイプの私にだって突き刺さる。るり子の持論はリトマス紙のようなものだ。それを行動に移すか否かで女を分けることができるだろう。そう、女なら誰しもが思うことを、思っても口にしないことを、るり子は堂々と少しも恥じることなく言ってのけ、そしてその為の努力を惜しまないのだ。

 

 

そのなかにはさほど美しくなくても若さで通せることもある。萌タイプの私だが、時にはるり子のように考え実行したことだってある。でもそれは、るり子よりずっとずっとスケールの小さなことばかりだ。それでもその過去が私にるり子への共感を抱かせる。

 

「聞き分けのよい女なんていちばんの曲者だ。心の中を我慢でいっぱいにして、そのことに不満を持ちながらも『我慢と引き替えに手に入れられるもの』のことばかり考えてばかりいる。どんなに落ちぶれても、我慢強い女だけにはならない。」

 

そんなるり子の言葉には考えさせられる。でも、萌のいうことが最もだとも思ってしまう。「女であることだけで、女は得するわけじゃない。美しく色っぽい女であること。そうじゃなければ、女なんてむしろ邪魔になるだけだ。」

 

私はるり子ほど女であることの恩恵を受けていない、そう萌のように。でも私は萌のようにるり子を不愉快に思わないし、大嫌いな女だとも思わない。むしろ、とても魅力的でるり子が羨ましくもある。それはひとえに、萌という女友達がいるからだ。本当に嫌な女は、女友達なんていない。

 

るり子を好きになれないと思ったのは、きっと過去の自分のるり子のような振る舞いに誰ともなく罪悪感を抱いていたからだ。るり子を羨ましいと思ったのは、るり子のように胸を張って女であることを楽しめていないからだ。きっと世の女性は、誰もがるり子のように振る舞ったりしながらも萌のように生きたり、その逆、萌のように振る舞うことがあるけれどるり子のように生きたりしているはずだ。

 

みんな、女であることを楽しんだり、悩んだりしながら。そしてるり子と萌のように、そんな女同士で寄り添って、やっぱり女っていいなと思わされてまた生きていくのだ。

 

(20代女性)

 

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