読書感想文「読むだけですっきりわかる世界史 現代編 オスマン帝国の終焉からポツダム宣言まで(後藤武士)」

最近すっかりおなじみになった言葉に「守破離」というものがある。物事を学ぶ上での心得を表した言葉で、「守」はとにかく最初は形を守って真似る。余計なことは考えないで真似る。「破」はそれができたなら少し破ってみる。

 

そして「離」がその結果、学んだものと離れ、オリジナルと呼べる自らの新たな形ができあがるという言葉。まさに清朝が洋務運動においてとるべき態度はこれだったのではないだろうか。この「守破離」という言葉は僕が家庭教師の仕事をしていた時に、大手塾に英語の教師として派遣されたときに塾の先生から教えたもらった言葉です。

 

子供の教育に役立つと思いました。203高地の失敗→さて日露戦争である。日本が目指したのはロシア北洋艦隊基地のある旅順港。ここの要塞を叩き、北洋艦隊基地をよくて壊滅、悪くても足止めすることを狙う。この狙いは正しい。しかも旅順は一度は日本が清から譲られたものを、三国干渉で返還されられ、それをこともあろうにロシアが清朝から割譲したという因縁の地。緒戦のモチベーションアップにも最高のターゲットだ。

 

 

当初日本海軍はここを奇襲するが失敗。そこで、海軍は陸軍に攻略を依頼する。この時期の日本軍はまだ、海軍と陸軍の連携がうまくいっていた。「そんなの当たり前でしょ」と思う人もいるだろうが、そうでもない。第二次世界大戦の頃には、日本軍の陸海軍はむしろ牽制し合い、縄張りの争いも激しくなっていた。

 

だが、この時点での陸海軍の連携はスムーズ。「大砲に阻まれてうまく攻略できない。こっちも蹴艦砲射撃でアシストするから陸から頼む」というのは旅順攻略には納得の形だった。この旅順を見下ろせる小高い山があった。203高地という。山というより丘といったほうがいいのかもしれない。空中戦以前の戦争においては、丘を制するのは重要なポイントとなる。

 

ところが日本軍はここを軽視していた。日本軍がその重要性に気がついた時には、もはやロシアはここを固めてしまっていた。当時の日本の軍隊は陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥という藩閥もあった。旅順の攻略に引っ張りだされてきたのは、歴戦の名将乃木希典だった。一度は引退に近い形で休職していた乃木を引っ張り出してきたのは、彼の人望と経験を見込んでのことだったろう。

 

確かに彼は人望厚い人だった。が、正攻法でただひたすらに次から次へと送り込んだ。そして、203高地はやっとのことで陥落、すぐに旅順も落ちるが、この間に多くの日本兵が命を失った。→乃木希典は、僕の住んでいる地域の柏原(宿場町)にもその当時訪れているそうです。余談ですが「三島池のカモは」はロシアから飛んできたそうです。

 

ドイツの快進撃 花の都陥落→目を西に向けよう。南西に進路を取るドイツ軍は6月14日、ついにフランスの首都パリを無血占領。無血占領できた理由はほかでもない、フランス軍に守る気がなかったから。抗戦を主張するレノペタン(在任1940)を押さえ、第三共和国最後の首相となった第一次大戦の英雄ペタンが6月22日にドイツに対する降伏を選択。

 

休戦協定が結ばれ、ドイツはフランス国土の3分の2を制し、アルザス・ロレーヌを併合した。もちろんフランスにも徹底抗戦を叫ぶ勢力はあった。その代表、緒戦における功績で史上最年少でフランス陸軍の将軍になっていたド=ゴールはイギリスに亡命。ロンドンに自由フランス政府を打ち立てた。ド=ゴールの抵抗運動に呼応する者が本国でも地下活動を開始、レジスタンスと呼ばれる抵抗運動を繰り広げた。

 

ド=ゴールは後にフランスの独裁者となるのだが、同時に祖国を救った英雄としても扱われ、シャルル=ド=ゴール空港をはじめ、フランスの至る所に、いたる有形・無形のものに彼の名前がつけられている。歴史の勉強になり、とても面白かったです。

 

(50代男性)

 

 

 

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