物語の軸のひとつが、言葉である。リリックに夢中の高校生羽田融は、日々の生活の中で出会う言葉の数々をどんどん頭に打ち込んでいく。その姿を見続けているからこそ、読者にとっても、出てくるひとつひとつの言葉が身に刻み込まれていくのだ。融は言葉だけに出会うのではない。
もうひとつ、剣道というそれまで全く接点の無かったものに巡り合うのだ。それでも最初は、剣道と繋がる独特の言葉に融は魅かれていた。「守破離」や「三殺法」そして「殺人刀」と「活人剣」など、剣道に触れねば意味も読み方すらも分からない言葉である。融ほど言葉や音に執着はないが、シュハリ、サンサツポウ、サツニントウ、カツニンケンという濁点のない音の響きが、使われる漢字とは裏腹に単純に清らかで美しいと感じる。
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剣道は道であり精神を律する作法が時に清らかに見えるが、しかし根本は命を絶つ方法を含む。武術の経験が無い人間として抱くイメージは、剣道をはじめ武術というのは対する相手を死にいたらしめるものであろう。剣の腕はあっても悩み続ける矢田部研吾が悶々としていたのは、父の「殺人刀」であった。
ところが、物騒な字面の剣道の言葉たちが示す「殺」の矛先は、剣を持って対峙する相手ではなく己自身だというのだ。強さは、相手ではなく自分を殺すことにあるらしい。研吾を縛り付けていた父の「殺人刀」も、結局は”己を殺すこと”にあった。研吾が父を葬ったのではなく、父が自ら己を葬ったということなのだ。そして研吾は己を殺せぬがゆえに父や光邑禅師から「弱い」と唾棄され、父に勝てず、酒に負けたのだろうか。
剣の天賦の才を発揮する融と、融の姿に父の「殺人刀」を見た研吾の交流は簡単には評せない。衝突し、剣道の道やら作法やらを超えて剣を打ち合うのだが、彼らの剣戟はあくまで剣士としてであり、個々人の恨み辛みは無いのである。恨み辛みがあるとすれば結局は内なる自分であって、ゆえに融と研吾は互いに剣を交えてはいるものの、対峙する相手は己自身であるように見えたのだ。
自分を殺すために間合いをはかり、相手を打ちすえていた。彼らの己と向き合う過程や姿勢は、「殺」の気をまとわりつかせてはいたものの、やはりその音の響きと同じように清らかで美しいものである。
(20代女性)
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