読書感想文「傷心(デイヴィッド・ハンドラー)」

今年の6月11日、私の父が死んだ。劣等感が強く、癇癪もちでわがままなひとだった。性に固執し、「男らしさ」という概念に最期までとらわれていたように思う。まだ実父が亡くなった感傷が残る中、私は本書を読みはじめた。インターネットで拾った「きちんとしただけの人は死人と同じですよ」という言葉に惚れて、本書を読むことに決めた。
 
『傷心』、これが本書の日本題だ。このタイトルは育ての父親と交際関係をもってしまった娘クレスラを主人公としてつけたのだろうが、私はクレスラの育ての父親ソアを主人公として読み進めていた。父親はいつもこどもを傷つける。家族を傷つける。男らしさを発揮すればするほど、周りの人間は疲弊していく。
 
戦うことが男の本能だからだ。絶対的ではなく相対的な勝利によってでしか満足感を得ることができない。だから敵をつくり、それに向かい血を流して戦う。ソアが、語り手ホーグにこんなふうに語り場面がある。「自分を追い求めなくなるやつらがいる。そういう連中は自分に問うことをやめる。どっか隅っこに隠れて、ひっそり土になる。あんたにはそんなふうになってほしくない。あんたの才能が泣くぞ。」
 

 
 
「じつに危険だ。俺たちが生きているのは恐るべき時代だ。このポストモダンの時代に、俺たちはけちでさもしい人間に成り下がった。何も信じず、何も追い求めず、何にも関心を持たない。知性は現実との共感を失っている。マスコミは公開処刑にふけっている。なのに俺たちは流れを食い止めようともしない。危険が伴うからだ。危険が俺たちをびびらせる。俺たちは勇敢であることを忘れてしまった。男たることを忘れてしまった。」
 
戦わなくなることは戦えなくなることだとソアは信じている。戦えなくなることは恐ろしいとソアは感じている。ソアは男らしさを追い求めいつまでも戦士でいたかったのだ。しかしソアは最も肝要な点で勇気がなかった。ソアは自殺する勇気がなかったのだ。ソアは末期がんにおかされていた。がんに侵され徐々に朽ちていくことをソアは恐れていた。
 
それは男らしくないからだ。理由と尊厳のある死をソアは望んでいた。誰かに殺されてもいいような状況をソアはつくりだした。未成年それも養子との不倫によって。しかし、顛末は哀れなものだ。生殖器を切り取られて池の底に沈んで発見されたのだ。男らしさを追い求めたソアの最期は、男らしさを失ったものだったのだ。我々男は、ほかの男に競争心を抱いてしまう。
 
しかし、それを抑えることなく開放することはもっとも哀れな最期の原因となるのだ。私の父も末期がんで逝った。50歳だった。できなくなることが日に日に増えていくことが悔しくて辛いと言っていた。この悔しさや辛さをばねにすることはできない。悔しいからと言ってできるようにはならないのだ。
 
私たちは生物として子孫を後世に残していくことが自然だと言われる。男らしい雄は子孫を残しやすいかもしれないが、子種を残したら早々にこの世を去るべきではないのか。それがもっとも男らしい最期なんじゃないかと、私は思う。ソアと同じ男として私は考える。この先どのように生きていけばいいのか。
 
強すぎても弱すぎても周囲から反感を買い、自分のやりたいこともわからないこの世で、いったいなにをすればいいのかと。最期の姿を哀れなものにしてでも生きたいように生きるのか。死にたいように死ぬために諦めをもって生きていくのか。働き始めた身として、男として、またこのさき父親になるかもしれない身として、どう生きたいか、どう生きたらいいのかを考えさせられた。
 
しかし、考えたところできっとこたえはでない。「自分が何を望んでるかなんてわからないわよ」「心配するな。わかっているやつなんていないから」
 
(20代男性)
 
 
 
 

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