『虚無への供物』は1964年刊行。『ドグラ・マグラ』、『黒死館殺人事件』と共に「日本三大奇書」として知られている。本書については完全に興味本位、またエンターテイメントとして楽しむ目的で読み始めたものである。
しかしながら日々の生活の中で、ふと戒めのように思い出す作品となったことは、思いも寄らないことであった。物語の中で登場人物達が不可解な死を遂げ、そのことについて「探偵役」を称する人々が、各々の推理を繰り広げる。ところが最終的には、一連の事件については、想像されていたような「連続殺人」ではなかったということが発覚する。
推理小説の探偵という役割は、大抵は「善のもの」ではないだろうか。探偵がいることによって、犯人が然るべき罰を受けたり、更なる殺人が食い止められたりする。ところが本作の「探偵による推理」には、このようなプラスの作用を感じない。
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むしろ、探偵役がいかにもな感じで披露していた「推理」は、外野が関係のない事件をいかにも関係があるかのように想像し、勝手なことをしゃべっていただけだったのだ、という印象を受ける。面白がって事件を作っていたのは探偵役や、本書の読者自身であったのだ。
このようなことを、私たちは実際にやってはいないだろうか。殺人事件などの刺激的なニュースが耳に入った際に、「きっと犯人はこういう奴だったんだ」とか「こんなことに巻き込まれるなんて、被害者にも落ち度があったに違いない」などと、知ったような口をきいたりはしていないだろうか。
『虚無への供物』を読んで以来、私はふとそのように考えてしまう。外野が勝手に想像し、あーだこうだということ自体が、悪気はなくとも、事件関係者を傷つけ、貶めることにはなっていないだろうかと思わずにはいられない。
昨今はSNS等により、不特定多数に向けて自身の見解を発することが容易になっている。実際の事件記事にリンクを貼って、「こういう風に思う」と感想を述べることもできる。そのような文章を発信すること自体が、悪いことであるとは思わない。
しかし実際の事件について発言するときには、非常に慎重であるべきだと思う。少なくとも、『虚無への供物』を読んだ後の自分はそう考える。この読書体験がなかったら、私も「探偵役」のように外野から勝手な想像をして、関係者の尊厳を考えず、面白がっただけの不用意な発言をすることがあったかもしれない。
自分のあさはかで、「構われたがり」な性格を考えると、そんなことを考える。本書は自分にとって、大切なストッパーとなっているのかもしれない。ちなみに、以上のこととはあまり関係がないが、本書からは太平洋戦争後の復興の勢いのようなものを感じることもできる。
遠からぬ過去に戦争の悲劇を経験しておきながら、登場人物たちはお洒落をして、ゲイバーで遊び、シャンソンを聞く。もちろんそうでない人も多かっただろうが、少なくとも本作の登場人物たちを見る限りでは、敗戦の大打撃にも関わらず「よくぞここまで立ち直ったものだ」と、当時の人々の逞しさを感じてしまう。
自然災害の多い日本に暮らす私たちの中にも、この逞しさが眠っているだろうかと、何かしら希望のようなものを感じる。
(30代女性)
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