ライトノベルや、エッセイを得意とする筆者の作品である。もともと「オヤジどもよ!」や「ショッピングの女王」シリーズの軽めで自虐も込められたものを読んでいたため、事件録であるこの作品には少々驚いた。
活字中毒でませていた中学時代にこの本を手に取ったのだが、事件で殺したり殺されたりという女たちが実在している、というリアリティーがわたしの背筋を凍らせた。サスペンスやミステリーも好きでよく読むのだが、それとは訳が違っていた。
世の中には怖い人たちもいるんだな、とか、トラブルに巻き込まれないようにしないとな、気をつけよう、とか、そんな次元で他人事として眺めることはどうしてもできなかった。筆者は作中で、「特殊な女がいるということでは決してなく、とても極端な女たちがこのような末路を辿っている」という旨の文を書いているのだが、「極端」であるということは、「だれでも陥る可能性のある」ということなのだ、としびれるようなショックを受けた。
殺した女も、殺された女も、極端であるがゆえに感情移入ができてしまう。できてしまうということは…。また、極端なのは女たちだけではないのだ。必ず陰に男という生き物や視点が他者として存在している。
殺した男も、被害を受けた男も、共犯になる男も、そして女たちも、それぞれが出会う瞬間までは「一般的」の範疇の中で「ごく普通」に社会のなかで生きていられたのではないか?ということをどうしても考えてしまう。
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女という病、を抱えた、わたしたちも含めた現代の個人の女たちが事件を引き起こしているのではなく、このような「極端」が積もり積もって吹き零れてしまう現代社会全体が、「女という病」の負の連鎖を引き起こしてこのような形で発露してしまっているのではないかな、と未熟な頭で考えていた。
中村うさぎ本人がさまざまな破滅的な人生を歩むなかで、「踏みとどまる理由のある人は私みたいにはならない。でも、一歩間違えば私も向こう側に行ってしまっていたかもしれない。そして貴女も、どこかで一歩違う方向に歩みだしていたらこの女たちのように殺したり、殺されてしまっていたかもしれない。」と伝えてくれているようだと思った。
(20代女性)
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