読書感想文「本泥棒(マークース・ズーサック)」

主人公のリーゼルは母親の言いつけで、汚れた洗濯物のの回収をしに、家を回っている。その家の一つに、町長の家がある。

 

いつも出迎える夫人は心の病らしく、ほとんど口を利かなかったのが、リーゼルがかがり火の傍にあった本を持っていったところを目撃して以来、回収しにくるたび家に入れて、図書室のような部屋に招いてくれるようになる。しばらく、奇妙なこの交流がつづいたあとで、戦争によって、どの家も余裕がなくなっていき、とうとう町長の家も洗濯の依頼をやめることになる。

 

もう、図書室に入れないのかと落胆するリーゼル。そんな彼女に夫人は、また来ていいと言うが、突然リーゼルは怒りだす。人に洗濯物を頼んで楽にしているような、鼻持ちならない金持ちめ!というようなこと罵るのだ。

 

夫人の善意になんでそんなに怒るのか、ましてや恩をあだで返すようなことをするなどと何ごとかと、普通なら思うと思う。でも、自分には彼女の気持ちが分かる気がした。比べれば、なんでもないことだけど、ある人に銭湯の割引クーポンをもらいつづけたことがある。どうせ家にいっぱいあって困っているほどだから、と言われて、はじめは嬉しかったものを、回を重ねるごとに、嫌になってきた。

 

そのことを人に愚痴ったら「くれるなら、もらっておけばいいじゃない」と言われて、なんだかもっと嫌になった覚えがある。人とは不思議なもので、自分がいい思いをしたとしても、一方的になにかしてもらうのは、嫌らしい。リーゼルがそれまで、躊躇いつつも町長の家に入っていたのは、洗濯物を回収しにきたという目的があったし、その家の家事の一部を担っていたわけで、一応持ちつ持たれつの関係にあったからだ。

 

洗濯物の依頼がなくなれば、夫人の気持ち次第になる。ドアを開けてもらうには、夫人をその気にさせなければならず、彼女に気にいってもらうようなことを、しないといけない。かといって、戦時中、苦しい家計の足しにと、人の家の洗濯物をしていたリーゼルの家にすれば、その収入が断たられるのは厳しいし、相手が金持ちなだけに、余裕があるくせに惜しみやがっててと、思わないこともない。

 

だから、本を読みたいのなら、仕事を断られても嫌でも笑って、そのあともドアを開けてもらうたびに、鼻持ちならない金持ちに「ありがとう」と笑わなければならない。言いかたをかえれば、本を人質にとられて、「靴の先を舐めろ」と言われて従っているようなものだ。

 

 

 

本をこっそり持ちだしたことを咎めるどころか、それだけ本に餓えているのだと知って、家にある本を読ませてくれてたのは、まったくの善意からだろう。それに夫人は見返りどころか、感謝の言葉も欲しがってはいないように思える。ただ与えるだけ与えているものの中には屈辱と、人を卑屈に思わせる、悪気のない悪意がある。中々「くれるなら、もらっておけばいいじゃない」と思えないのは、その屈辱と悪意に耐えられないからだと思う。

 

与えるほうは、自分がいいことをしていると思うし、相手が嬉しくないわけがないと考える。だから普通、親切にしてリーゼルのように激怒されたら、なんて恩知らずなと、なんて子供だと、もっと怒るところ、夫人はなにも言わなかった。代わりに例の部屋の窓に鍵をかけないでおいた。リーゼルに本を読ませたい、でも心にもなく感謝したり笑って欲しくもなかったのだろう。

 

与えるほうだって、案外、人にありたがられて、自分が、気分がよくなれば、それでいいというわけではないのかもしれない。被災地にいったカメラマンも言っていた。被災した人にレンズを向けるのは気が引けたものの、思いのほか彼らは嫌がらなかったと。

 

そしてお茶やお菓子をだして、もてなしてくれ、助けられるだけでなく、こうして人になにかしてあげたいのだと、言ったそうだ。本当に助けがいる人なのだから、それこそ「助けてもらえるのなら、どれだけでも助けてもらえばいいじゃない」と言いたいところ、どれだけ困っていてもそう思えない人間というのは、損なもので、でも愛おしくも思う。

 

(30代女性)

 

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