読書感想文「砂の女(安部公房)」

人の生き様は、一切が虚しい。それはあたかも「無数の粒が集合した砂」 が、潮風に吹かれて流動するように。絶対的なものは何一つなく、人は海から飛んでくる砂のような自然の不条理、そして社会の不条理に対抗するべき力もない。人はただ小さな楽しみを支えに、全てが徒労に思える生活を営んでいるだけなのだ。
 
それでもなお、生活における無力感から脱することができるのは労働なのだ、という虚無的で諦めを持ちながらなお人の生きることに対する「粘り強さ」を作者は表現していると感じた。この物語は、砂丘へ昆虫採集に出かけた主人公の男が、村人に宿を求めて、深い砂底に埋もれかけたある家に「降りていく」ことから始まる。
 
その家の持ち主の女は、来る日も来る日も砂の底で砂を掻くことで、わずかな収入を得ており、細々と生計を立てている。砂を掻く一方で、風に運ばれてきた砂が、容赦なく積もる。賽の河原に石を積み上げるような途方もない、奴隷のような仕事をする女。主人公は堤防作る等の対策をとれば良いのではないかと提案するが、村人や女は、結局この方法が一番安上がりなのだと言って取り合わない。
 
この村人や女の向上心のなさ、言い換えるならば「諦めのよさ」は、この物語の中核をなしていると私は考える。なぜならば、諦めてしまえば、絶望しないからだ。希望があるから、現実をとのギャップを直視することによる絶望がうまれる。希望がなければ絶望もないのだ。
 
主人公はその後、村人や女の共謀により、砂の底に女と閉じ込められて、結婚するように申し渡される。男は何とかして脱出を試みるがなかなか成功しない。ようやく底から這い上がって逃亡するも、主人公は底なし沼にはまってしまい、村人に助けられて、もとの砂底に戻らされてしまう。
 
男は希望を奪われて、生の執着をなくそうとするが、女と体の契りや心の機微を交わすことで、やがて思考に変化が現れ、主人公はいつしか積極的に女との生活を守ろうとするようになる。捕らえられていたた男は、捕らえられた理不尽な環境に、やがて精神も馴染んでいったのだ。
 
ストーリーが幻想的で極端ではあるが、私たちの生活も主人公の男と似たようなものではないだろうか? 人は希望を持ち、様々な不条理に夢を奪われ、虚しさを感じるも砂が流動するように、やがて自分の置かれている環境や価値観に適応し生活を営む。
 
我々の人生は、岩を山頂まで運び、山頂から谷底に落として、再び岩を山頂へ運ぶギリシャ神話のシーシュポスのように無益で虚しいけれど、そのしつこく、粘り強い繰り返しの中にこそ、人の生があるのかもしれない。それは小説のタイトルでもある「砂の女」の生き方そのものなのだ。作者はこの作品を通じてそう伝えたかったように私は思う。
 
(30代女性)
 
 
 

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