読書感想文「喧嘩猿(木内一裕)」

この物語は森の石松として知られる男の無名時代を描いている。今流行の日本刀が盗まれ、偶然その窃盗事件に巻き込まれた男が犯人追跡者の死に際に銘刀の奪還を誓うまでの話しと奪還に至るまでの話しに別れる。

 

 

登場人物の殆どは無法者であり法と秩序は重んじられない。しかし仁義を重んじるか目先の欲だけにこだわるかで登場人物の善悪が決まる。渡世に生きると決めた後の石松が銘刀窃盗犯をかばって奪還の邪魔立てをしてしまい、事情を知ったら死んだ犯人追跡者の志を継いで銘刀奪還に奔走する。

 

その道中には後に石松の親分となる清水の次郎長の敵対勢力が登場し、銘刀をめぐって駆け引きや死闘を繰り広げる。この物語は全て講談として書かれていて古典的仮名遣いに旧字体と読みにくい。私は戦争直後に書かれた岩波新書などを学生時代から読んでいたので抵抗は少なかったが、古典も読まず古書も読まず台本も読んだ事の無い人には難読書であろう。

 

しかし、講談の名調子を前提に書かれた死闘は読む人に古い時代劇の名場面を思い浮かばせる様な迫力がある。その名調子の中には「ラストサムライ」や新しい大河ドラマの様に単なる早回しに頼らない新しい時代の戦闘場面にも通じる迫力もあり単なる古典の隙間を埋める小説ではなく、新作講談として読者を惹き付ける。

 

意外だったのが清水の次郎長と敵対する黒駒の勝蔵が親に売られた子どもを養育し育てていると云う設定で、これには驚いた。完全に善意で養育するのではなく自分の渡世の為に働かせ、また人間の盾として敵前に曝す等の記述を読めば子どもに感謝されつつも尊敬はされないと云う場面も納得である。

 

勝蔵と対照的に石松は子どもを救う為に戦い、人質に取られれば刀を捨てるという人の良さで子どもから信頼され、恩返しに銘刀を返されると云う設定も偽善と自己犠牲の描写としては興味深い。

 

また賭博がチャンバラの次に大きなこの物語の柱を担っている。今日の日本でもギャンブル依存症は根深い問題であるが、当時は幕府公認の賭場が巨大な利権の温床であり、その利権を巡り争われる権力闘争は敵討ちと並んで死闘の原因になっている。

 

丁半博打自体は細かく描かれていないが、賭場を持てば寺銭で荒稼ぎできる事は否定も肯定も無く描かれている。この権利を横取りしたりする事は仁義に反すると諍いの元になるものの、幕府の目こぼしも含めて既得権としての賭場を開く権利自体は肯定されている。

 

ここを否定してしまえば博打打ち自体の存在が否定され、物語が成り立たない事は十分に理解出来るものの、この点は残念に感じた。そんな中で権力の手先でありつつ賭場を開き、敵を捕まえたら牢獄で水を与えず殺してしまう悪党が成敗される場面は法治が機能を失った時に善悪の指針が何に変わるかと云う根本問題を突きつけている。

 

この物語を通して描かれている、義理に生きる渡世の勇ましい側面は、場面こそ少ないながらも犠牲となる女性や子どもの哀れな立場でその弱点も描かれていて、バランスは取れていると感じた。

 

投稿者:古き良き時代に憧れつつより良き時代を夢想する男(50代男性)

 

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