これは作者・五味川純平が自身の戦争体験をもとに、極限状態での人間の醜さと美しさを描き切った大作であると思う。仲代達也主演で映画化されたことでも知られているこの作品は、その抒情的な文章力により、登場人物の心の声や場面の緊張を読者に伝え、映像とは違った迫力を私に与えてくれる。
舞台は太平洋戦争真っ只中の満州で、主人公・梶青年は兵役を免除されながら満鉄調査部で働いている。しかし、無実の中国人が処刑されるという理不尽を前にしたとき、正義感から軍隊に異を唱えることで、それまで彼が持っていたものの全てを奪われ軍隊生活へと突き落とされる。
特権的立場にある人間が保身のために無実の人間の死に目をつぶるか、正義のために声を上げるかという究極の選択にさらされるところが、個人的には物語前半部分のハイライトである。そしてあくまで正義を貫くことで、梶は人間として勝利を得るのである。
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しかしその後彼が突き落とされた境遇は地獄そのものである。インテリとして生き、高い収入を得、最愛の女性と結婚するという幸運まで手に入れていた彼がそれまで見ることのなかった、軍隊生活での圧倒的な理不尽さ、残忍さ。
旧陸軍での私的制裁の酷さがいかに殺伐とした人間を大量生産したか、ドキュメンタリーや手記などでも語られることが多いが、この小説の中でもその様子が克明に描写されていて、胸が痛くなる。
敵兵ではない、他ならぬ同じ日本兵であるはずの人々を、少しばかり階級が上の人間が辱め、殴り、恥をかかせて精神的に追い詰めていくシーンを読むたびになぜここまで同胞に残酷になれるのかと恐ろしくなる。
同じ日本人として連帯し、思いやるより、暴力という力を使って組織を統治しようとする発想が、昔も今も変わらぬ日本のやり方なのかと複雑な感じを抱かせる。人が破壊されていく様子を読むのも恐ろしいが、何より恐ろしいのはそうした軍隊生活でため込んだ怒りや恨みが、敵兵である中国人に対して圧倒的力をもって暴発するところだ。
その部分を読むだけでも胸が悪くなるほどだが、救われるのはそうした地獄のような世界で、打ちひしがれながらもなお人間としての心を失うまいと戦う人々がいたことだ。主人公・梶は捕虜となった一中国人との間に、人間同士としての心の交流を求めた。
理不尽な暴力に日夜苛まれる同期兵を庇おうとする兵がいた。日本軍の暴力から、敵国人である中国人を助けようとした兵がいた。凄惨な世界の中で、それでもなお人間であり続けようとする者と、同じく人間であり続けようとする者とが手を伸ばしあう。
とある登場人物の言葉ではないが、「人間のそばには、必ず人間がいる」のである。軍隊での暴力に耐え、満州国境での壮絶な戦闘に生き残った梶は、ソ連の捕虜になる。しかしここでも軍隊生活と同じように、階級が下のものを虐待する兵隊が捕虜の一人を理不尽な死に追いやる。そこでついに梶は彼を殺してしまうのである。
お前のような奴が正当に裁かれるのを待っている間に、良い奴がまいってしまうんだよ!と心の中で絶叫しながら梶は兵隊を殴打するが、まさにこの時梶は、兵隊を殴り殺しながら、あらゆる理不尽に耐えるしかなかった自分を、その忌まわしい思い出を、清算していたのだと強く感じた。
死体となった兵隊に一瞥もくれることなく梶は捕虜収容所を脱出する。そして満州の荒野をさまよった挙句、飢餓により死を迎える。救いのないラストだが、読後は梶の体験の苛烈さと壮絶さを思うと同時に凄惨な世界で時折人が垣間見せる心の美しさ、温かさにも思いが行く。
人間の究極の醜さと、究極の美しさに、心が極端に揺れ動きいつ読んでも呆然としてしまう。
(30代女性)
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