「レ・ミゼラブル」の読書感想文②
この本を読んで人間の善性の貴さを改めて痛感したと同時に自分の道徳的な態度を見直したくなった。人間誰しもが不正をなしたり、何らかの悪性をもっていたりする。そして、それに対する罪悪感やコンプレックスを本来であれば抱いているはずだ。
ところが、社会生活を営んでいく上でこれらの後ろ向きの感情は悪になりうるものであるため抑制され忘却されていく。
私もこういった悪を忘却してきた人間であったが、主人公のジャン・バルジャンをはじめとする人物の生き様を見て生き方を改めなければならないと痛感した。私自身、様々な不正をなしてきていることは否定できない。
しかし、それを経験した記憶が確固として存在しているので良心の呵責は存在する。社会的、刹那的利益のためにその不正を合理化していくうちに良心の呵責はなくなり、善と悪の間での葛藤もなくなった。社会に適応していくうちに卑しい人間となってしまった。
これは私に限った事ではなく多くの人物に当てはまるのではないだろうか。宗教の重要性が低下し絶対的な宗教的価値観がなくなったため現代社会の道徳的価値基準は非常に多用で曖昧なものである。
それ故に多様な合理化が可能であり不正を道徳的に正当化することが容易になっているのではないだろうか。だからこそあえてジャン・バルジャンのような純粋に善を追求していく姿に崇敬の念を覚える。
不正をなしてもそれを一人で猛反省し懺悔していくというのはなかなかできるものではないし、不正をなさないために自分の名声や富を犠牲にしてでも正しさを追求していくのは私の卑しい生き方と真逆な尊い生き方であるからこそ憧れる。
正しさを追求したからといって報われるわけではなく他人から評価されるわけでもないが、高潔な生き方に憧れを持ってこれを信念としたい。確固たる信念を持っている人間の生命力は本当に強いというのはこの本を読んで改めて実感したことの一つでもある。
この本には様々な正義や価値基準を信念として持って、それを行動の第一基準にしている人物が多いが、これらの人物は貧困等の困難にも打ち克って強くたくましくそして美しく生きている。
作中にも登場人物にも見受けられるが貧困や不利益に不平不満を言い、全てを社会のせいにして無責任な姿勢を貫き不正をなしている人物はこのような信念に欠けているのだろうと感じる。
同時に自分もそういったところがあるのではないかと思うと自分の生き様が恥ずかしくなった。この不況で情勢が読めない世の中だからこそこの本の登場人物のように絶対的な価値基準を信念としてただひたすらに善と正義を追求していきたい。
善や正義がなんであるかは哲学の世界でも2000年以上結論が出ていない難しいことであるし、正しいことをしたつもりでも道を踏み外してしまうかもしれない。それでも猛省と自己問答を繰り返して迷いながらでも正しく生きたい。
(20代男性)
















軽蔑の対象である(笑)
何も与えずに人を変えられる人なんているんですか?
十代で数ヶ月掛けて読み終えた本書を、六十代の今読み直しました。ユゴー特有の脱線があんなに辛かったのに、今は興味深く読めている自分に驚いたりしています。本書で語られている悲惨は、決してあの時代やフランスに限ったものでなく、現在の日本に違った形であれより大きく横たわている現実なのだと、実感しました。本書の冒頭にあるユゴーの言葉を、もう一度読み直しました。
あ
い
う
中2です
宿題で参考にさせて頂きたいのですが宜しいでしょうか?