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読書感想文「レ・ミゼラブル(ヴィクトル・ユーゴー)」

「レ・ミゼラブル」の読書感想文①

困窮により、パンを一枚盗んで脱獄失敗を繰り返し、十八年も刑務所に入れられてしまう人間がいる。そんな人間(本作第一部の主人公ジャン・ヴァルジャン)にも平等に接して、赦しを与え、まだやり直せると言う司教。

ジャン・ヴァルジャンは世の中の哀れな犯罪者同様。生きるために再度は過ちを繰り返す。しかし、司教はその過ちをも受け入れる。そして、身を削り、おまけに司教が唯一大切にしていた持ち物の銀の燭台をチャンスと共に与えるのだ。

壮大な物語はそこから始まる。ジャンは改心し、二部では一つの町の市長“マドレーヌさん”へと姿を変える。自分を悪の道から救い上げてくれた司祭のような人物を目指したのだ。

マドレーヌさんは持ち前の器量の良さ、施しの精神を市民に与え、まっとうで素直な人物として愛される。しかし、過去の悪行が祟り、市長付きの刑務官ジャヴェールにジャン・ヴァルジャンであることを疑われる。

そして、ジャンが犯した犯罪の罪を誤った人間が被ろうとするときにマドレーヌさんはジャンを名乗るのである。彼は正直者だ。自ら逮捕される道を選んだ。今までマドレーヌさんを慕っていた人々から後ろ指を刺されてしまうのである。

人々は人間を見ているのではなく、人間の業だけを見ていたのである。ここまで述べたうえで、僕が本作に感じたことを書こうと思う。第一に、犯罪を犯した人間にもチャンスが与えられるべきだというような世界の上でこの物語は始まっている。

十九世紀のフランスは本作でも大きく語られるのだが、あまり治安が良いとは言えないのである。困った人間はジャンのようにパンを盗んで捕らえられることもある。完訳のほうでは語られていた通り、街中の建設物に居を構える浮浪児もいる。司教のような人物は異端なのである。

この物語は部によって、主人公が変わるのだが、本質的な主人公は一貫してジャン・ヴァルジャンなのである。そのジャンが司教の救いによってもたらした影響を眺める作品と言えよう。司教のような人間は僕にとって軽蔑の対象である。

偽善的で、与えるだけでは人は変われない。“どうせ”過ちを繰り返すのだろう。そう、もくろみ通りなのである。ジャンは再度罪を犯す。しかし、ジャンは再度司教に許されることによって、善の道へと進むことを覚悟する。

現実にこういうことが起こる可能性は限りなく低い。しかし、ジャン・ヴァルジャンは超人的な覚悟、頭脳、身体能力をもってして変わっていくのだ。

ユゴーが本作以てして述べたかったのは、「環境で生まれた悪は許すから、チャンスは与えられるから、諦めずに生きろ」といったことなのではないかと僕は思う。この世界には二種類の悪人がいるのだ。

生粋の悪人とそうでない者。生粋の悪人というのは後に出てくるフランスを騒がせた数人のことである。そうでない者というのはジャン・ヴァルジャンのような人間である。こういった二種類の悪というのは僕たちが生きている現代社会にも多く存在するであろう。

生まれ持った格差は十九世紀から、二十一世紀になった今でも何も変わっていないからである。貧困にあえぐ人々、札束の風呂で泳ぐ人々。ブルジョアと貧困層の問題は何一つ解決されていない。

ユゴー自身が悩んだ末での社会に対しての問題提起だったのかもしれない。結末についても触れると、ジャン・ヴァルジャンの“人生”には涙を流さずに入られない。同じような父性にしてもゴリオ爺さんと違う結末があるからだ。父性とは甘やかすことだけではないことを学べた。

ジャン・ヴァルジャンのように僕も改心できたなら、きっとこの作品を読んで良かったのであろう。今はまだその途中だ。犯罪は犯す人間が悪いのでなく、犯さざるをえない状況が悪い。人間自体に罪はない。そう信じて生きてみようと思う。

(10代男性)

「レ・ミゼラブル」の読書感想文②

この本を読んで人間の善性の貴さを改めて痛感したと同時に自分の道徳的な態度を見直したくなった。人間誰しもが不正をなしたり、何らかの悪性をもっていたりする。そして、それに対する罪悪感やコンプレックスを本来であれば抱いているはずだ。

ところが、社会生活を営んでいく上でこれらの後ろ向きの感情は悪になりうるものであるため抑制され忘却されていく。

私もこういった悪を忘却してきた人間であったが、主人公のジャン・バルジャンをはじめとする人物の生き様を見て生き方を改めなければならないと痛感した。私自身、様々な不正をなしてきていることは否定できない。

しかし、それを経験した記憶が確固として存在しているので良心の呵責は存在する。社会的、刹那的利益のためにその不正を合理化していくうちに良心の呵責はなくなり、善と悪の間での葛藤もなくなった。社会に適応していくうちに卑しい人間となってしまった。

これは私に限った事ではなく多くの人物に当てはまるのではないだろうか。宗教の重要性が低下し絶対的な宗教的価値観がなくなったため現代社会の道徳的価値基準は非常に多用で曖昧なものである。

それ故に多様な合理化が可能であり不正を道徳的に正当化することが容易になっているのではないだろうか。だからこそあえてジャン・バルジャンのような純粋に善を追求していく姿に崇敬の念を覚える。

不正をなしてもそれを一人で猛反省し懺悔していくというのはなかなかできるものではないし、不正をなさないために自分の名声や富を犠牲にしてでも正しさを追求していくのは私の卑しい生き方と真逆な尊い生き方であるからこそ憧れる。
 
正しさを追求したからといって報われるわけではなく他人から評価されるわけでもないが、高潔な生き方に憧れを持ってこれを信念としたい。確固たる信念を持っている人間の生命力は本当に強いというのはこの本を読んで改めて実感したことの一つでもある。

この本には様々な正義や価値基準を信念として持って、それを行動の第一基準にしている人物が多いが、これらの人物は貧困等の困難にも打ち克って強くたくましくそして美しく生きている。

作中にも登場人物にも見受けられるが貧困や不利益に不平不満を言い、全てを社会のせいにして無責任な姿勢を貫き不正をなしている人物はこのような信念に欠けているのだろうと感じる。

同時に自分もそういったところがあるのではないかと思うと自分の生き様が恥ずかしくなった。この不況で情勢が読めない世の中だからこそこの本の登場人物のように絶対的な価値基準を信念としてただひたすらに善と正義を追求していきたい。

善や正義がなんであるかは哲学の世界でも2000年以上結論が出ていない難しいことであるし、正しいことをしたつもりでも道を踏み外してしまうかもしれない。それでも猛省と自己問答を繰り返して迷いながらでも正しく生きたい。

(20代男性)

「レ・ミゼラブル」の読書感想文③

貧しい家庭の人々が貧困に喘いで犯罪にまで走ってしまう悲惨な生き様や生涯を描いているとても悲哀感が溢れるスゴイ悲しい物語である。

主人公ジャン・バルジャンが、お腹が空いて仕方なかったためにパンを泥棒したという罪だけでなんと9年も牢獄に入ってしまうという残酷な世の中の有様が実に明確に描かれている。

残して来た家族が心配で何度も脱獄を計り、捕まるたび刑期が延びたとは言え、パンを盗んでしまったというだけで、そんなにも長い期間牢獄に入っていないといけないということがとても悲惨に感じるのだ。

しかもジャンが牢獄から出た後も家族には中々受け入れてもらえなくてすごく寂しい悲惨な状況下に置かれてしまうのである。家族のためにやったことだったというのにである。と読んでいると思わず同情してしまうほどだ。

ただ実の家族達はすごく冷たくて意地悪だったが、物語の途中でジャンが出会うこととなる教会の神父様だけは態度がまったく違っていた。非常に慈悲深くて心優しい神父様の態度にすっかり心を洗われるジャンであった。

とにかく内容が悲惨、貧しいということがこれほどまでに人に辛さや悲しみ、差別と侮辱、恥辱感を与えるということを身を持って知らされる内容なのである。

その上、あまりもの可愛そうさにこの「ああ無情」の物語を読み勧めて行くほどに途中で何度も同情の涙が一滴二滴と頬を伝わっては落ちて行くのをどうすることも出来なかったのである。

また当然この世界中で有名な物語のジャン以外の主人公のコゼットも出てくるが、コゼットの母親がこれまた類を見ないほどのどん底の貧しさで、お金が無さ過ぎで生活が成り立た無いために自身の歯を売ってしまうという悲惨な有様もとても印象的なストーリー展開である。

結局工場で働き過ぎてしままったためにコゼットの母親は病気になり死んでしまうこれも涙なくしては語れないスゴイ悲惨な情景である。コゼットも母に引き取られる前は何処で面倒を見てもらっていてその時期はずっとコキ使われまくって苛めまくられていたという悲惨な過去の持ち主なのだ。

とにかく最初から最期までこの物語は悲惨な貧困階級と差別と虐待がメインテーマとしか言いようが無い内容なのだ。そして、ジャンもジャンを追っていたジャベル刑事もそうだがコゼット以外の主な登場人物は皆殆ど死んでしまうという何かとてもある意味呪われている内容である。

たった一人の少女が生き残るためにその他の主なメンバーが全て息絶えてしまうのだ。これはある意味とてつもなく恐ろしいことだと思えるのである。オカルト趣味の要素も十分伺える内容だと思えるのだ。

つまり孫子の代まで祟ると言う何かの因縁や恨みに対する呪いのような物をまざまざと感じてしまうということなのだ。

(50代女性)

「レ・ミゼラブル」の読書感想文④

最初にこの書籍が日本では原題通りの「レ・ミゼラブル」というタイトルと「ああ無情」という日本語タイトルで翻訳出版されている事、書籍により一部の翻訳が異なっていたり、一部カットされている場合がある事を先に述べて本題に入る。

この作品は映画や舞台にもなっているので名前だけなら聞いた事があるという方々もいるだろう。特に冒頭にある銀の燭台のエピソードだけ切り取って教科書に掲載されている事も多い作品である。

この作品の舞台となるのはフランス革命の前後の時代のフランスで、作中に実際のフランス革命の描写を織り混ぜる事でメタフィクションとしての側面もうかがえると言って過言ではないだろう。

最も有名な冒頭の銀の燭台のエピソードで教会から銀の食器を盗んだジャン・バルジャンをミリエル司教は咎める事はなく許しを与えて「それは差し上げるが、人の為に役立てなさい」と言ってさらに銀の燭台を渡して諭すところにも言えるが、この作品の根底にあるのは博愛である。

そもそも最初のエピソードでジャン・バルジャンが投獄されたのは自分の私利私欲ではない。貧困から満足に食べる事すらままならなかった家族の為に1本のパンを盗んだ事で19年もの間投獄された。

そして出所後も行く先々で冷遇され続けた結果、人間不信から魔が差して銀の食器を盗んでしまった。しかし、ミリエル司教はそのジャンに許しを与えて人の為に使う様にと盗まれた銀の食器に加えて銀の燭台を与えた。

教会から銀の食器を盗んだジャンは捕まった時に食器は貰ったと嘘をつき確認の為に教会に連れていかれた際には覚悟していたがミリエル司教の許しを受けて呆然としたが、改心していく。

ここまでの話は有名であるが以後の物語ではジャンはミリエル司教に諭されてから人の為に生きる様になっていく姿が描かれていく。それこそ偶然知り合っただけの他人の為にとか自分と関わった人間に対して少しでも手助けが出来れば自己犠牲を払っていくようになる。

この作品は現代人こそ読むべきものではないだろうか?ぎすぎすした人間関係で誰しもが人間不信になっていてミリエル司教の様な無欲で他人を活かす様な人は皆無な時代には一読して人間愛を考えて良いのではないかと考えられる。

(20代男性)

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6件のコメント

十代で数ヶ月掛けて読み終えた本書を、六十代の今読み直しました。ユゴー特有の脱線があんなに辛かったのに、今は興味深く読めている自分に驚いたりしています。本書で語られている悲惨は、決してあの時代やフランスに限ったものでなく、現在の日本に違った形であれより大きく横たわている現実なのだと、実感しました。本書の冒頭にあるユゴーの言葉を、もう一度読み直しました。

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