「人魚の眠る家」の読書感想文②
「母親は子供ためなら狂うことができる」私自身も2人の子供の母親であるため、その見出しに興味を持ち、手に取ったこの本。内容は、不慮の事故により脳死状態となった幼い娘をこのまま生かすのか、臓器提供をするのか思い悩む母親の苦悩を描いたものである。
読み進めていくと、切なく苦しい思いになった。もし我が子だったらと思わずにいられないのだ。脳死となれば、子供の未来は無いに等しい。もう魂は身体に宿っていなくて、たくさんの生命維持装置に生かされ、眠りながら死を待つのだ。
客観的に考えれば、臓器提供をすれば、この世のどこかで、子供の心臓が生きていると考えられる。しかし、我が子となれば話は別だ。例え魂がなくとも、髪は伸びるし便をするのだ。身体の何処かしらが機能しているのに《脳死》と。
死という字を使うことがひどく非情に思える。我が子の命を親である自分が止めてしまう、そんな辛い選択をしないといけないのか。堂々めぐりの考えは、読み終わったあとでも答えは出なかった。
結局この母親は、娘自身が命を終わらせるまで側にいる覚悟を決め世話をするのだが、そうする事で家族内に溝が出来てしまう。眠ったままの娘を車椅子で連れて歩く事で、息子がいじめに合ってしまうのだ。夫に娘はもう死んでいるのだ。
生かすのは親のエゴではないか?と言われ、母親は狂っていく。とうとう警察を呼び、脳死である娘を今ここで刺した場合、殺人罪になるのか、ならないのかで、娘が今生きているのか死んでいるのかを証明しようとしたのだ。
脳死という判定が曖昧である日本では、こういうことが実際起こりうるのではないだろうか?的確な基準が必要なのではないだろうか?と思わず考え込んでしまった。
しかし、今回この作品は脳死してしまった母親側から書かれているため、母親に共感出来るが、もし我が子がドナーを待っている側だったらどうだろう。先ほどまで感じていた共感は消え、この子が提供してくれれば我が子は助かるかもしれないのに、と簡単に間逆の考えになるのだ。
それほど親と言うものは子供のためなら、いかに単純で、いざというときは手段を選ばずにいられるのだろう。それが周りから見れば、どんなに狂っていようが、それが親なのだと痛感した。子供は、時には言うこときかないし、イライラさせられることも多いと思う。
しかし、イライラするのも愛情があるからで、無関心ではいられないからなのだ。いつ、事故や病気で子供の笑顔が奪われるのか分からない。この本を読んで、子供たちとの時間をもっと大切に過ごしていこうと思った。
(20代女性)
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